明治7年に渡辺小華が豊橋に移り住み、従来の石峰・文笠一門であった画家たちも南画一色となり、小華門は最盛期を迎える。小華門下では、遠江の山下青厓、豊橋の深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、田原の井上華陵、鏑木華国らが名声を高めた。
渡辺小華(1835-1887)わたなべ・しょうか
天保6年江戸麹町田原藩邸生まれ。渡辺崋山の二男。名は諧、字は沼卿、通称は舜治。天保11年、6歳の時に父崋山が蛮社の獄で田原に蟄居した際に家族とともに移り住んだが、翌年崋山は自刃した。その後江戸に出て崋山門下の椿椿山に入門。安政元年の椿山没後は画家として独立し、安政3年田原藩側用人だった兄が25歳で急逝したため家督を相続した。文久元年師椿山の養女須麿と結婚して田原に帰郷。明治7年に豊橋に移り住み、吉田神社の前庭「百花園」に定住した。明治15年には東京に移転したが、豊橋時代には東三河や遠州の画家に大きな影響を与えた。明治20年、53歳で死去した。
深井清華(1827-1888)ふかい・せいか
名は諌雄。深井家は代々吉田藩主大河内家の家老職で、廃藩当時は御中老だった。明治初期に写真家で画家の下岡連杖に師事し、はじめて豊橋に写真術を移入、大手に深井写真館を開業した。渡辺小華が豊橋に来たのを機に、小華について画を学んだ。明治21年、62歳で死去した。
大平小洲(1849-1930)おおだいら・しょうしゅう→参考:長野29
信州飯田の人で、小華を慕い豊橋に来て小華門に入った。豊橋と飯田の間を往来していたが、のちに飯田に定住し、門人も多く育てた。作品は豊橋地方に散見される。
関根痴堂(1841-1890)せきね・ちどう
本名は録三郎、字は美意または美柔、別号に致堂がある。長兄は関根杏村。藩校時習館教授。小華とは交友が深く、文人画を余技として描いた。明治23年9月21日、51歳で死去した。
稲田耕山(1853-1894)いなだ・こうざん
渥美郡堀切の名門、藤波平太夫の子。稲田文笠の養女の配偶として養嗣となった。各地の小学校で教鞭をとるかたわら、小華に画を学んだ。明治27年2月25日、42歳で死去した。
長尾清江(不明-1911)ながお・せいこう
吉田藩の経士。小華に師事し、墨竹を専門に学び、竹以外は描かなかった。別号に聽竹がある。明治44年死去。
森田緑雲(1853-1913)もりた・りょくうん
名は光文。渥美郡牟呂村の牟呂八幡社世襲の神主である森田光尋の子で、父光尋についで神職となった。明治9年から小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、小華なきあとは、晩翠、衣洲らとともに三河における小華門を盛り上げた。多くの展覧会に出品しており、明治17年の第2回内国絵画共進会には、原田圭岳、長尾華陽、深井清華、稲田耕山、鈴木拳山らとともに出品。明治17年には、三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成に大河戸晩翠、植田衣洲らと小華一門として参加。明治23年には第3回内国勧業博覧会で褒状、明治24年に日本青年絵画共進会で一等を受けている。大正2年8月25日、61歳で死去した。
小野杜堂(1840-1915)おの・とどう
天保11年8月29日生まれ。本町の酒造家久兵衛の子。幼名は柳三郎、通称は久六で、のちに道平と改めた。諱は正爾。画は百花園に通って小華に師事し、号は掃石。俳画をよくした。明治25年に豊橋町の三代目町長となったが、39年の市制施行後の市長選にやぶれ、その後はいっさいの俗事をのがれ、俳諧書画の世界に遊んだ。大正4年10月14日、76歳で死去した。
鈴木梅巌(1836-1918)すずき・ばいげん
天保7年花園町生まれ。名は五平次。本家に子がなく、本家に入って鈴木吉兵衛を襲名した。本町の大山梧平とともに上京し、梧平は表具師を、梅巌は画家を志し塩川文麟に四条派を学んだ。帰郷後まもなく明治の時代となり、四条派から南画へと嗜好が移りゆくなか、梅巌も明治7年に小華が豊橋に来たのを機に、小華について文人画を学んだ。書も能筆で、書画の鑑定にもすぐれ、崋椿一派はもちろん、故人の書画鑑定にも信頼があったという。大正7年、83歳で死去した。
村田小圃(不明-1921)むらた・しょうほ
三ツ相生まれ。名は周作。最初は文笠に画を学び、表具師となって船町に住んだ。小華が豊橋に住むようになって、小華の門に出入りするようになり、自然に小華の影響を受けるようになった。大正10年死去。
加藤玉壺(1828-1919)かとう・ぎょくこ
名は皆蔵。船町で表具屋をしていて、小華が豊橋に来たのちに親近の間柄となり、画を学んだ。花道で高名で、松月堂古流の日本総会頭だった。大正8年6月3日、91歳で死去した。
東三河(5)-画人伝・INDEX
文献:東三画人伝