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幕末の異色の南画家・藤本鉄石

藤本鉄石 左:西園雅集図、右:菊花図

藤本鉄石(1816-1863)は、備前に生まれ、25歳のときに脱藩して京都に移り住み、やがて尊皇攘夷思想に共鳴し、文久3年、天誅組を組織して総裁となり、大和で倒幕の兵を挙げ、大和十津川で戦死した。一方で、浦上春琴の門人の伊藤花竹について南画を学び、さらに画譜、画論などから独学したとみられる。南紀への旅を振り出しに全国各地を歴遊しており、各地で名画、名筆に触れ、自然の風物に接して画技を磨いたものと思われる。旅の費用の一部は画料だったと推測され、職業的に多作したとも思われる。山水や人物が多く、いかにも武士らしい強い筆致の中に瀟洒な味わいが漂う画風が持ち味である。

藤本鉄石(1816-1863)
文化13年上東郡東川原村生まれ。名は真金、字は鋳公、通称は学治のちに津之助、別号に鉄寒士、柳間契民、海月浪士、採菊老人、都門売菜翁、君山人、吉備中山人など多い。備前藩の小吏片山佐吉の二男で、14歳で父の実兄の藤本重賢の養子となった。16歳の時に藩の倉庫の番人となり、翌年家督を相続した。その頃から浦上春琴の門人で備前藩儒者の伊藤花竹について南画を学びはじめたと思われる。25歳の時に用水番の勤務中に、逃走してそのまま脱藩した。翌年からは京都を本拠地とし、国学や陽明学、天心独明流の剣術や長沼流の軍学を修め、のちに京都伏見奉行の依頼に応じて学校を開くまでになった。その一方で、南紀への旅を振り出しに、関東、北陸、四国、九州と各地を歴遊した。鉄石は自作の漢詩の中で「泉州堺の路傍で画を売ろうとしたが一顧だにされなかった」と告白しており、旅費の一部は画料によって捻出していたものと思われる。やがて尊皇攘夷思想に共鳴し、自ら「天誅組」を組織して総裁となり、大和で倒幕の兵を挙げた。一時は1500人以上の兵力を擁したが、結局敗れ、文久3年、48歳で大和十津川において戦死した。

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文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜




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