画人伝・福島 南画・文人画家 山水・真景

琴の奏者として会津を訪れた近世南画の大家・浦上玉堂と会津藩の音楽方として生きた二男の秋琴

浦上玉堂「山紅於染図」重文

岡山藩の支藩・鴨方藩士の子として岡山城下に生まれた浦上玉堂(1745-1820)は、藩務のかたわら、儒学や医学・薬学といった学術、詩作や七絃琴といった芸術の分野にも関心を示し、特に七絃琴に関しては演奏家、作曲家、造琴家を兼ねるほどだった。40歳の頃からは画業にも本格的に取り組みはじめた。

次第に武士としてではなく、風雅の世界で生きることを望むようになった玉堂は、ついに脱藩を企て、16歳の長男・春琴と10歳の二男・秋琴の二人の息子を伴って岡山を出奔、大坂を経て江戸に向かった。玉堂50歳の時だった。

江戸では、琴をはじめさまざまな楽器の指南をして生計をたてていた。そんな玉堂の評判を耳にした会津藩が、音楽方として仕事の依頼をしてきたのは、脱藩して1年が経った玉堂51歳の時だった。会津藩からの依頼は、猪苗代にある土津神社に伝わる神楽の再興をするというもので、さっそく玉堂は、当時11歳だった二男の秋琴を伴い会津を訪れた。

土津神社は、会津藩松平家藩祖・保科正之を祀る会津藩にとって最も重要な神社で、そこに伝わる神楽は廃絶の危機にあった。玉堂らによる再興作業は順調に進み、1年あまりで復興なった神楽の披露も行なわれた。これで玉堂は会津を去ることになるが、一連の功績が認められ、二男の秋琴は会津藩の音楽方として召し抱えられことになり、京都や江戸での修業を経て、会津に落ち着いた。

会津を去った玉堂は、京都を拠点に諸国遍歴を十数年したのち、67歳からは長男の春琴と京都で同居し、音楽、詩作、作画にふけり、文人たちとの交流を深めながら晩年を過ごした。生涯「琴士」であることを誇りに思い、職業画人とみられることを嫌った。筆は自らの楽しみのためだけにとり、山水だけをテーマに、技巧にたよらず心のままに描いた。画面には、琴を携えた玉堂自身がたびたび登場する。

浦上秋琴「秋景山水図」

浦上玉堂岡山近世画人として最大の存在・浦上玉堂

浦上秋琴(1785-1871)うらかみ・しゅうきん
天明5年備前岡山城下生まれ。浦上玉堂の二男。本姓は紀、名は遜、字は仲謙、通称は紀二郎。10歳で父の脱藩に伴い岡山を出奔、父が会津藩の招聘に応じて会津藩祖・保科正之を祀る土津神社の神楽を再興した功により11歳で会津藩士に召された。その後は、江戸や京都で雅楽の修業を行なった。27歳の時には雅楽方頭取に昇進したが、藩内では次第に雅楽や神楽を学ぶ気風が薄れてきたとみえ、30歳代半ばからは音楽に限らぬ一般の藩士としての勤めが主になった。50歳の時には喜多方の慶徳稲荷神社の田植歌復興に尽力した。70余年を会津の地で暮らし、幕末の会津戦争後、85歳で岡山に帰った。70歳での隠居後は、画筆をとる機会が増え、没する直前まで筆をふるった。明治4年、87歳で死去した。

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文献:文人として生きる 浦上玉堂と春琴・秋琴父子の芸術、ふくしま近世の画人たち、会津の絵画と書、会津人物事典(画人編)




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