飛騨に生まれて京都画壇で修業した日本画家のうち、塩川文麟に師事した垣内右嶙・垣内雲嶙父子は、のちに金沢に移り金沢画壇で活躍した。山元春挙に師事した玉舎春輝は春挙・栖鳳門下を中心に設立された日本自由画壇の中心メンバーとして活躍。櫟文峰、富田令禾、谷口香泉、冠者幸作らは修業ののちに高山に戻り、それぞれが熟練した技術で飛騨の文化推進に貢献した。
垣内右嶙(1825-1891)かいと・ゆうりん
文政8年高山生まれ。名は直道。京都に出て、はじめ岡本豊彦に、のちに豊彦門下の塩川文麟に師事した。弘化2年頃までに高山に帰り、高山陣屋御用絵師になった。嘉永3年、飛騨総社神楽台鏡天井の雲龍図を描いた。翌年、再び京都に出て、この年から慶応年間にわたり岩倉具視に画工として仕えた。この間勤皇の志士らとも交わった。明治4年頃帰郷し、諸国遊歴の末、金沢市に移り画塾を開き金沢画壇で活躍した。明治24年、67歳で死去した。
垣内雲嶙(1845-1919)かいと・うんりん
弘化2年高山生まれ。垣内右嶙の長子。名は微(徽とも)。はじめ父に学び、慶応3年頃に京都に出て、父と同じく塩川文麟に師事した。明治4年に帰郷後に諸国を遊歴。明治17年には京都府画学校で北宗の教官になった。明治24年父の急逝により金沢に移り画塾を引き継いで金沢画壇で活動するが、明治34年に東京に移り住み、日本美術協会や日本画会等で活動した。明治40年には文展不出品を宣言し、正派同志会の結成に参加した。大正8年、75歳で死去した。
玉舎春輝(1880-1948)たまや・しゅんき
明治13年高山生まれ。豪農・清水家の五男。本名は秀次郎。別号に臥牛庵がある。飛騨市古川の陶器業の玉舎家の養子となった。明治32年京都に出て、はじめ鈴木松年を訪ねたが画風が合わず、原在泉に入門するが、伝統志向の原派にあきたらず、明治33年頃山元春挙に師事した。明治42年文展に初入選、以後文展に出品するが、大正8年に文展が廃止になり帝展になると、中堅作家を排斥し新進作家を抜擢する帝展に反発、帝展不出馬を表明した春挙・栖鳳門下らの有志と日本自由画壇を創設した。以後官展を離れ、同展を主な活躍の場とした。昭和23年、69歳で死去した。
櫟文峰(1891-1970)あららぎ・ぶんぽう
明治24年高山生まれ。製果業者の次男。本名は順造。明治38年、京都に出て加藤英舟に師事する。大正2年文展初入選。翌年、英舟門を出て、傾倒していた竹内栖鳳のいる京都市立絵画専門学校に入学、翌年同校別科を修了した。大正10年、栖鳳門の橋本関雪の画塾に入り、関雪より多大な影響を受けた。昭和26年頃、妻子を京都に残し単身で高山に戻り、三福寺河畔の小庵で画作三昧の生活を送った。昭和45年、80歳で死去した。
富田令禾(1893-1985)とみた・れいか
明治26年高山生まれ。富田豊彦の子。はじめ位峰と号し、のちに令禾に改めた。大正元年、東京美術学校に入学するが病気のため中退、大正5年、京都市立絵画専門学校別科に入学、菊池契月に師事した。昭和20年、疎開のために高山に帰郷、以後高山で飛騨美術協会、岐阜県美術展、黄玄会、高山市美術展覧会などに出品する一方、画塾を開き後進の指導にあたり、歌人、郷土史家としても活躍した。主な著書に『飛騨案内』『飛騨の伝説』『高山祭と屋台』などがある。昭和60年、93歳で死去した。
谷口香泉(1894-1954)たにぐち・こうせん
明治27年高山生まれ。酒造業の三男。本名は永造。生来、耳が不自由だった。大正3年、京都市立聾唖学校絵画科を卒業し、その後同校教諭だった望月玉泉の画塾に入ったが、生家が倒産したために志半ばで帰郷、母妹と姉が養子入りしていた清見の庄屋・島家の居候となる。家業を手伝いながら画作を続けたが、農地改革で島家も凋落し、本格的な画業はかなわなかった。昭和29年、61歳で死去した。
冠者幸作(1912-2012)かんじゃ・こうさく
明治45年高山生まれ。本名は小作。14歳の時に京都に出て、富田令禾と木村斯光に師事した。師を通じて上村松園や土田麦僊らを知り、特に関東大震災のために京都に来ていた岸田劉生の影響を受けた。京都市展や大阪市展に出品していたが、昭和18年、戦争のため帰郷、戦後は高山は春慶塗の木地絵付けをする傍ら、飛騨美術協会、岐阜県美術展などに出品、制作を続けた。平成24年死去。
岐阜(18)-画人伝・INDEX
文献:岐阜県の美術、飛騨人物事典、京都画壇で学んだ岐阜の画家たち