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秋田蘭画の画家たち

左:藤氏憲承「円窓美人図」、右:太田洞玉「蝦蟇仙人図」

秋田蘭画の画家としては、平賀源内に西洋画法を伝授された小田野直武と、直武から画法を学んだ秋田藩主・佐竹曙山を中心に、直武のよき理解者だった角館城代の佐竹義躬、直武とともに源内から直接学んだとされる田代忠国荻津勝孝らがいるが、直武と曙山が早世したこともあり、その後継者は多くない。

小田野直武の二男・直林は、長男が夭折したため家督を継いだ。はじめ狩野派を学んだが、洋風画も描いた。狩野派の筆法に陰影法を取り入れた無落款の作品のなかに直林筆と推定されたものが数点あるが、確かな洋風画は落款のある1点だけである。

秋田蘭画の画法を示していながらも無落款で作者が特定できない作品も少なくない。掲載の「円窓美人図」は、中国美人画をもとに、洋風の陰影法を取り入れたもので、秋田蘭画の広がりを知るうえで重要な作品と位置付けられているが、作者名の「藤氏憲承」は、図中の印章からくる仮称である。

また、「蝦蟇仙人図」は、小田野直武が秋田で没した翌年に描かれたもので、遠山に旧来の山水画の手法が用いられていることから秋田蘭画ではないという研究者もいるが、落款にある「田資彬」の仮称で、何度か秋田蘭画関連の展覧会に出品されていた。近年、金子信久氏の調査によって、この作品の作者は、久留米藩の家士・太田洞玉であることが明らかになった。

小田野直林(1772-1841)おだの・なおしげ
安永元年生まれ。小田野直武の二男。幼名を伊勢五郎といい、其明、武助と称した。諱は直林。小武、蛙山、如雲斎、麓蛙叟などと号した。確かな洋風画は落款のある「老子騎牛図」1点だけである。天保12年、69歳で死去した。

藤氏憲承(不明-不明)とうし・けんしょう
伝歴は不詳。藤氏憲承の名称は、「円窓美人図」に「羽陰藤氏」(朱文方印)「憲承之印」(白文方印)の二顆の印章があることによる仮称である。筆致は鋭く、すぐれた画才の持ち主であることがわかる。

太田洞玉(不明-不明)おおた・どうぎょく
久留米藩の家士。本姓は源、姓は太田、名は資彬。洞玉と号した。少なくとも天明元年には絵を描いていたことがわかっているが、どこで画技を身に付けたかなど詳細は不明。

菅原寅吉(不明-不明)すがわら・とらきち
秋田市の所蔵家の貼り混ぜ書画帖のなかに、陰影法を用いた「蝦蟇仙人図」があり、それに菅原寅吉と墨で書いた別紙が貼り付けてあるのが、寅吉筆のよりどころで、唯一の作品である。伝歴について確かなことはわからないが、文化の頃の人で、生け花の松亭流を設け、応機斉其得と号したとも伝えられている。

秋田(9)-画人伝・INDEX

文献:秋田蘭画-憧憬の阿蘭陀-、小田野直武と秋田蘭画、江戸の人物画 姿の美、力、奇




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