江戸中期になると、蘭学と密接に結びついた和洋折衷の洋風画が、長崎、京坂、江戸、須賀川、秋田など各地で展開されるようになった。そのなかでも、秋田藩士・藩主らによって形成された「秋田蘭画」は、江戸系初期洋風画の系列にあって最も早く開花したものである。
秋田蘭画が誕生する契機となったのは、安永2年(1773)、鉱山開発のために秋田を訪れていた平賀源内が、目的地の阿仁銅山に向かう途中に立ち寄った角館で、青年画家・小田野直武を見出したことによる。源内は直武の非凡な画才に感嘆し、洋書の挿絵を示しながら、直接洋画法を伝授したという。
発明家、本草学者、地質学者、浄瑠璃作者など多彩な肩書きを持つ博学の奇才・平賀源内は、長崎で西洋画法を学んでおり、洋風画開拓者の顔も持っていた。長崎滞在中に描いたと思われる油彩画「西洋婦人図」(掲載作品)は、現在残されている唯一の源内の洋風画である。
源内に見初められた直武は、その年のうちに藩命により江戸に上り、源内のもとで本格的に西洋画法を学ぶことになった。源内の周辺には多くの蘭学者や画家がおり、そのネットワークのなかで、南蘋派の宋紫石の影響を受け、また、翌年には杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の翻訳『解体新書』の挿絵を担当した。
直武は源内から得た知識を、秋田藩主の佐竹曙山に伝え、この二人を中心に、直武のよき理解者だった角館城代の佐竹義躬、直武とともに源内から直接指導を受けたとされる秋田藩士の田代忠国らが集い、洋風画派「秋田蘭画」が形成されていった。
しかし、安永8年、源内が殺人の容疑で投獄され、獄中で死去。翌年には直武が32歳で没し、その5年後には曙山も死去した。創始に関わった人物の相次ぐ死により、秋田蘭画は終焉に向かうことになるのだが、源内に理論を、直武に技法を学んだ司馬江漢が、銅版画と油彩画という新たなジャンルを切り開いて、秋田蘭画の理論と技法を江戸洋風画の形成へとつなげていった。
平賀源内(1728-1780)ひらが・げんない
享保13年高松藩寒川郡志度浦生まれ。名は国倫、字は子彝。鳩溪、天竺浪人、森羅万象と号した。高松藩で本草方として頼恭に仕え、宝暦2年長崎に遊学してオランダ学芸を修めたが、宝暦4年に退役して江戸に移り、本草学者、戯作者として活躍、蘭学の開拓者でもあった。安永2年秋田藩に招かれて阿仁銅山の検分に赴いた際に、小田野直武に洋画の理論と実技を教え、これが秋田蘭画誕生の契機となった。宋紫石、司馬江感をはじめ、ほかの洋風画家に大きな影響を与えた。安永8年、52歳で死去した。
秋田(3)-画人伝・INDEX
文献:秋田蘭画展、小田野直武と秋田蘭画