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群馬洋画の先駆者・湯浅一郎

湯浅一郎「西洋婦人編物」群馬県立近代美術館蔵

湯浅一郎「西洋婦人編物」群馬県立近代美術館蔵

明治元年、碓井郡安中町(現在の安中市)に生まれた湯浅一郎(1868-1931)は、父と親交のあった新島襄の同志社英学校普通科に学び、明治21年卒業した。卒業後は、画家を志し、その前年10年間のフランス滞在から帰国した山本芳翠が開いていた画塾・生巧館に入り、本格的に洋画を学びはじめた。

明治22年、洋画の興隆を目的として明治美術会が結成され、湯浅はその第4回展に出品した。同展は、欧州留学中の黒田清輝が初期の代表作である「読書」をフランスから出品した展覧会で、黒田のその後の活躍を決定付けた展覧会でもあった。明治26年、黒田と久米桂一郎がフランスから帰国すると、黒田を高く評価していた芳翠は、自分の画塾である生巧館を黒田と久米に譲り、画塾名は天真道場と改称され、湯浅は引き続き在籍して黒田らの教えを受けた。

また同年、黒田らの尽力でそれまで洋画を締め出していた東京美術学校に西洋画科が新設され、湯浅はその選科3年に入学、同年黒田と久米によって結成された白馬会にも加わり、明治43年の第13回展まで続く白馬会の展覧会に出品し続けた。

明治38年、私費留学でヨーロッパへ出発した。当時、ほとんどの画家がパリを目指していたが、湯浅はスペインのマドリードに向かい、プラド美術館で見たベラスケスの作品に感銘を受け、約1年をかけてその模写に費やした。明治40年パリに移り、藤島武二とともにロンドンからオーストリアを巡る旅に出かけ、パリに戻ってからは約2年間腰を落ち着けた。明治42年パリを立ち、イタリア各地を旅し、途中エジプトに滞在しながら、翌年、約4年ぶりに帰国した。

湯浅がヨーロッパ滞在中の明治40年、日本では文部省主催による文展が開設されるという大きな出来事があった。このニュースはフランスの日本人画家たちにも届き、湯浅も第2回文展にパリから作品を送って出品した。帰国して間もなく、白馬会が解散したため、湯浅は引き続き第5回文展にも出品したが、大正3年、文展の審査員問題で不満を持っていた石井柏亭、有島生馬ら14名とともに在野団体二科会の創立に参加し、以後二科展に出品した。

二科会第4回展では萬鉄五郎や東郷青児による立体派、未来派の作品が脚光を浴び、さらに第16回展では、福沢一郎がパリからシュルリアリスムの作品を発表し画壇に衝撃を与えた。その後も二科展には西洋の新しい美術に感化された若手画家の作品が発表されるとともに、次々と新しい在野団体が誕生した。以後の傾向として、文展、帝展という官展よりも、在野団体に実力のある若手画家が集まるようになった。

湯浅の活動は、明治、大正の日本近代洋画史の本流に沿ったものだったが、堅実な自然主義的画風だったこともあり、華々しい脚光をあびることはなかった。また、早くから東京に出て活動していたことから、地元群馬の美術界への直接の影響は少ないが、湯浅の活躍に触発された洋画家が群馬から多く誕生し、昭和に入って群馬洋画は隆盛を迎えることになる。

湯浅一郎(1868-1931)ゆあさ・いちろう
明治元年碓井郡安中町(現在の安中市)生まれ。子どものころから絵を好み、上毛三山や安中の杉並木を写生していたという。明治15年同志社英学校普通科に入学、明治21年同校を卒業し、山本芳翠の生巧館画塾に入門。明治25年第4回明治美術会展に出品し、以後も出品。明治27年生巧館画塾が黒田清輝と久米桂一郎に譲渡され天真道場を改名されたため、引き続き同塾で学んだ。明治29年東京美術学校に西洋画科が新設されたため選科3年に入学。同年第1回白馬会に出品し、以後出品。明治31年東京美術学校選科卒業、引き続き研究科に在籍。明治36年第5回内国勧業博覧会に出品。翌年セントルイス万国博覧会に出品。明治38年ヨーロッパに私費留学に出発、スペインに滞在、明治40年パリに移った。明治41年パリから第2回文展に出品。明治43年帰国。明治45年第1回光風展に出品。大正2年朝鮮ホテルの壁画制作のため山下新太郎と韓国に渡る。大正3年二科会の創立に参加。以後二科展に出品。昭和6年、62歳で死去した。

群馬(23)-画人伝・INDEX

文献:生誕150年湯浅一郎、群馬の近代美術、北関東の近代美術、群馬県人名大事典




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