小田野直武(1749-1780)は、寛政2年に秋田藩角館の武士の家に生まれ、幼いころから画才を示したといわれ、秋田藩お抱え絵師から狩野派を学び、さらに南蘋派など幅広いジャンルの絵画を独学で修め、秀作を残している。しかし、24歳の時に平賀源内に巡り合わなければ、この段階からの前進は望めなかったに違いない。それほど源内との出会いは直武の人生を急転させるきっかけとなった。→秋田蘭画の誕生と平賀源内
安永2年、角館を訪れた平賀源内は、旅館にあった屏風を見てその画才に興味を示し、作者である小田野直武を呼び出し、その才能を確認したとされる。二人の出会いの場面は、次のように伝わっている。
まず源内は直武に、真上から見た鏡餅を描くように注文した。直武が重なった餅を二重丸のように描くと、これではお盆だか輪だか分からないと指摘し、洋風の陰影法による立体感の出し方を教えた。さらに室内の行燈の明かりを近付けて、物のかたちを正しく表現するには明暗をはっきりさせ、色の濃淡をつけることだとし、持参していた蘭書をとりだし、その挿絵を見せながら洋風画法の大要を説明したという。
この逸話が真実かどうかは定かではないが、この年のうちに藩命により直武は江戸に上り、源内のもとで本格的に西洋画法を学ぶことになる。江戸では、源内周辺の蘭学者や画家たちと交流し、蘭学者が所蔵していた洋書の挿絵などから遠近法や陰影法など西洋画法を学び、南蘋派の宋紫石にも強い影響を受けながら画法を確立していき、25歳の時には杉田玄白らが著した『解体新書』の挿絵を担当した。
安永6年、直武はひとまず江戸から帰郷し、習得した洋画法を藩主である佐竹曙山に伝授、曙山らとともに、のちに「秋田蘭画」と称される画派を形成していった。直武は、その後も曙山の参勤に随伴して江戸に上るなどし、江戸での活動も続いた。
ところが、安永8年の冬、盟友だったはずの曙山から謹慎を言い渡されてしまう。その理由は、藩の財政問題のもめごととも、藩主・曙山に意見したためともされているが定かではない。そして、翌年の5月、直武は突然死去する。その死因についても病没説や毒殺説などがあって明らかではなく、死の翌日に赦免されていることも疑惑を深めている。
直武の画業は、24歳の時の平賀源内との運命的な出会いに始まり、32歳での謎の死で突然終了してしまう。秋田蘭画の創始に関わりながらも、その短い生涯のなかで、少数の人物にしか影響を与えることができす、秋田蘭画は、昭和に入って再評価されるまで忘れられた存在になってしまうのである。
小田野直武(1749-1780)おだの・なおたけ
寛延2年角館生まれ。角館所預佐竹北家の槍術指南役・小田野直賢の第四子。幼名は長治、通称は武助、字は子有。別号に羽陽、玉川、玉泉、麓蛙亭、蘭慶堂などがある。はじめ秋田藩御用絵師・武田円碩について狩野派を学んだ。安永2年銅山方産物吟味役として江戸に上り、平賀源内のもとで西洋画法を学んだ。安永3年出版された『解体新書』で挿絵を担当、源内周辺の蘭学者や画家たちと交流し、南蘋派の宋紫石の影響を受けた。安永6年に帰郷し、翌年には角館から久保田への移転を申し付けられ、習得した洋画法を佐竹曙山に伝授した。同年9月に正式に御傍御小姓並として召し抱えられ、翌月曙山の参勤に随伴し再度江戸に上った。安永8年に遠慮謹慎を申し付けられ帰郷。安永9年、32歳で死去した。
秋田(4)-画人伝・INDEX
文献:秋田蘭画展、小田野直武と秋田蘭画