秋田蘭画が生まれるきっかけとなった平賀源内の秋田招聘は、時の秋田藩主・佐竹曙山によって行なわれた。曙山は、鉱山開発のために招いた源内が角館で小田野直武に洋画法を伝授したことを知ると、すぐに直武を江戸に上らせ、源内のもとで本格的に西洋画法を学ばせた。曙山自身も参勤で江戸に上ると、直武から洋風画を学んだり、熊本藩主の細川重賢ら蘭癖大名たちと交流して写実絵画の知識を得ていたようである。
江戸浜町の秋田藩邸に生まれた曙山は、父の死により11歳で藩主となり、18歳の時に初めて秋田に入国した。この頃の秋田藩は、人災、天災に見舞われ財政難だったが、曙山は、すぐれた才知と積極性で藩財政の改革に取り組んだという。また、政務のほかに、絵事にも関心を寄せ、はじめ狩野派を学んだが、次第に洋風表現に興味を示すようになっていた。
安永6年には江戸から直武を帰郷させ、翌年秋田本城詰を命じ、同年9月には、直武の協力を得て日本初の西洋画論である『画法綱領』『画図理解』を著した。同年直武を従えて再び江戸に参勤したが、翌年なぜか秋田蘭画の盟友・直武に謹慎を申し付ける。その翌年には直武が謎の死を遂げ、曙山は直武の遺した画稿や舶載銅版画をもとに洋風画の研究を続けていたようだったが、すでに制作意欲は衰えていたという。そして、直武の没後5年、生来病弱だったためもあり、江戸下谷の藩邸において38歳で死去した。
佐竹曙山(1748-1785)さたけ・しょざん
寛延元年江戸生まれ。秋田藩8代藩主。幼名は秀丸、初名は義直、のちに義敦と改めた。次郎と称し、孔雲、曙山と号した。宝暦8年父義明の死去により11歳で藩主となった。明和2年初めて秋田に入国した。はじめ狩野派を学んだが、安永2年に平賀源内を藩内の鉱山開発のため招聘したことを契機に、藩士・小田野直武を江戸に送り、源内のもとで西洋画法を学ばせ、自らも洋風画の制作に取り組んだ。安永7年日本初の西洋画論『画法綱領』『画図理解』を著した。直武から伝えられたプルシアンブルーをはじめとする数種の西洋の絵の具を用いた彩色方法をもとに、幻想的な絵画世界を築いた。天明5年、38歳で死去した。
秋田(5)-画人伝・INDEX
参考:秋田蘭画の誕生と平賀源内
参考:秋田蘭画の中心人物・小田野直武
文献:秋田蘭画展、小田野直武と秋田蘭画