鶴岡に生まれた服部五老は、京都で田能村直入に師事し、日本南画院の同人として活躍した。全盛時は、橋本関雪、竹内栖鳳らと並び称され、画の注文が殺到したという。豪壮な邸宅に住み、生活は豪奢を極め、来客が絶えなかったと伝わっている。しかし、晩年になると次第に絵を描くことを渋るようになり、生活は荒廃し、赤貧のなか没した。
五老の二男・服部二柳は、父に絵を習い、のちに中学を中退して橋本関雪に師事した。京都で活動していたが、大正10年に兄を亡くし、昭和3年には父を、さらに母や姉を相次いで亡くし、父母の故郷である鶴岡に移住した。自由奔放な筆致で、近代庄内が生んだ天才南画家とも称されたが、作画にムラがあり、晩年はみすぼらしい格好で鶴岡市内などを放浪し、ついには精神障害となり入院先の病院で没した。
服部五老(1869-1930)はっとり・ごろう
明治2年鶴岡生まれ。旧庄内藩士・服部大策の長男。本名は文太郎、安之。曽祖父は葛飾北斎門下の浮世絵師・大山北李。幼いころから絵が巧みで、長じて京都に上り、田能村直入に入門し高弟と称された。のちに日本南画院の同人となり、文展に3回入選した。好んで水墨画を描き人気を博したが、晩年は生活が乱れ、貧困を極めた。昭和5年、62歳で死去した。
服部二柳(1904-1968)はっとり・にりゅう
明治37年京都二条柳馬場生まれ。服部五老の二男。本名は辰雄。京都二条柳馬場に生まれたので「二柳」と号した。別号に双柳、瓊洞がある。11歳のころから父について絵を学び、その後旧制京都一中に入学したが、2年のときに退学して橋本関雪に師事した。父の死後生活に窮し、昭和11年鶴岡に移住した。昭和13年鶴岡の曙亭で遠縁にあたる書家松平穆堂が主催した「二柳の画会」が開催された。晩年は精神障害になり、昭和43年、入院先の病院において、63歳で死去した。
山形(27)-画人伝・INDEX
文献:鶴岡市史(下巻) 、庄内の美術家たち、院展にみる山形の美術100年、郷土日本画の流れ展