画人伝・鹿児島 円山四条派 山水・真景

薩摩の円山四条派

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山水図 税所文豹 鹿児島市立美術館蔵

狩野派が大勢を占めていた薩摩でも、江戸後期から明治にかけて円山四条派に学んだ絵師や南画家が登場するようになった。京都で四条派の松村景文に学んだ絵師としては、京都見聞役をつとめていた税所文豹(1809-1852)がいる。文豹は絵を描くとともに和歌もよくした。また、伏見御仮屋守、京都御留守居の田尻種美(1794-1855)も景文に学んでいるが、作品は残っていない。師は不詳だが、同時代の若松則文も和歌をよみ四条派の絵をよくした。則文の門人としては都城の赤池南鳳がいる。

同じく京都で小田海僊に学んだ絵師としては、和田芸谷(不明-1851)と本田蘿山がいる。小田海僊は、はじめ呉春から四条派の手ほどきを受け、のちに南画を学び、江戸後期を代表する南画家の一人となった絵師で、和田芸谷が海僊に学んだ時期は定かではないが、円山四条派風の美人画を残している。芸谷の門人には三原文叢と都城の速見晴文がいる。晴文は竹下寒泉について学んだとも伝えられている。

また、竹村大鳳、宮下文蟻も四条派をよくした同世代の絵師である。大鳳の門人としては甲斐東渓がおり、各地を遊歴し、風景山水を描いたと伝わっている。

税所文豹(1809-1852)
文化6年生まれ。歌人・税所敦子の夫。通称は篤之、龍右衛門。京都見聞役をつとめていた。松村景文に師事し、和歌を千種有功に学んだ。「天神図」「山水図」が残っている。嘉永5年、44歳で死去した。

田尻種美(1794-1855)
寛政6年生まれ。通称は次兵衛、大蔵。伏見御仮屋守、京都御留守居をつとめた。松村景文に師事した。作品は確認されていない。安政2年、京都の薩摩藩邸において62歳で死去した。

若松則文(不明-1859)
師は不明だが四条派の絵をよくした。和歌を山田清安に学んだ。別号に南坡がある。安政6年死去した。

和田芸谷(不明-1851)
小田海僊の門人。諱は正命、通称は仲之進。海僊に師事した時期は不明だが、「美人図」「元禄美人図」など円山四条派の美人画が数点見つかっている。嘉永4年死去した。

本田蘿山(1821-1864)
文政3年生まれ。加治木の人。通称は小次郎。別号に桜州がある。嘉永年間京都に行き小田海僊に師事した。奥羽地方を漫遊し、一時音信を絶った。「虎図」「鷹図」が残っている。元治元年、45歳で死去した。

伊地知呉東(不明-不明)
小田海僊に師事し、海僊の画法をよく伝えている。

三原文叢(1812-不明)
文政9年生まれ。三原静軒の子。名は経正、通称は次郎左衛門。文政10年、16歳の時から和田芸谷について学び、その後脇坂南溟、新見大年らについて、西日本各地を遊歴したと伝わっている。長谷川玉峯とも交流した。

竹村大鳳(1813-1873)
文化10年生まれ。名は大。京都に住み四条派をよくした。「富士図」が残っている。明治6年、61歳で死去した。

甲斐東渓(不明-不明)
竹村大鳳の門人。通称は弥右衛門。谷村巣玄の子として生まれ、甲斐権兵衛の養子となった。各地を遊歴し、風景山水を描いた。「春景山水図」が残っている。

稲留源左衛門(不明-不明)
四条派をよくした。

宮下文蟻(1819-1881)
文政2年生まれ。伊地知希賢の子。四条派をよくした。明治14年、63歳で死去した。

井上玉翠(不明-不明)
藤井良節の弟。通称は長秋、弥八郎、大和、石見。別号に翠庵がある。四条派をよくした。

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース

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