京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる青木図南(1790-1859)は、特に人物画を得意とし、一見して誰を描いたかが分かるほどの技量だったと伝わっている。しかし、同時代の鳥取藩内には、御用絵師の沖一峨(1797-1855)、鳥取藩の学制改革につとめ南画をよくした儒者・正墻適処(1818-1875)、土方稲嶺の門人で鯉の名手と謳われた黒田稲皐(1787-1846)らがおり、図南は彼らの影に隠れた存在だったといえる。門人には鳥取の近代日本画を代表する菅楯彦の父・菅盛南(1844-1897)がいる。
青木図南(1790-1859)
寛政2年生まれ。鳥取藩の家老・荒尾近江の家臣。活動の詳細は不明な点が多いが、土方稲嶺の息子・稲林や稲嶺の門人らとの合作が伝わっていることから、一時期稲嶺について学んだ可能性が考えられる。また、京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる。安政6年、70歳で死去した。
菅盛南(1844-1897)
弘化元年生まれ。菅楯彦の父。名は大次郎、字は直方、旧姓は三輪。幼いころから画を好み、はじめ青木図南に学び、師の一字をもらい「南保」と号した。ついで、丹後の宮津から父の蟠龍を慕ってきていた長谷川盛嶺について学んだ。この時、前の師匠の一字を残し、盛嶺の一字をもらい「盛南」と改号した。その後、京都に出て塩川文麟に学んだとされるが、残された作品や資料が少なく詳細は定かではない。京都から帰ってからは、山陰各地を遊歴し、旅絵師のような生活をしていたと思われる。明治30年、54歳で死去した。
三輪蟠龍(1803-1879)
享和3年生まれ。菅盛南の父。儒学者で医者。名は泰然、字は芳喬。筑後国浮羽郡大石村の旧家佐藤家の長男。学問の志をたて家督を弟に譲り、15歳で豊後国日田にあった広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入り漢学を修めた。その後、長崎から京都を巡り、儒学および医学を学んだ。さらに江戸に出て研鑽を積み、江戸で医療を開始、それにあわせて私塾を開き門下生を教育した。明治12年、77歳で死去した。
鳥取(10)-画人伝・INDEX
文献:藩政時代の絵師たち、菅盛南展図録