江戸時代の謎の浮世絵師・東洲斎写楽の正体に関しては、様々な説があるが決定的はものはないのが現状である。ただ、英国ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている斎藤月岑自筆本『増補浮世絵類考』に、東洲斎写楽に関しての記述として「俗称斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す、阿波公侯の能役者也」とあり、東洲斎写楽は八丁堀の阿波藩に仕えていた能役者・斎藤十郎兵衛ではないかという説が有力となった。その後の調査で、阿波藩に斎藤十郎兵衛という能役者がいたこと自体は確実視されているが、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽と同一人物であるという確証は得られていない。
東洲斎写楽(不明-不明)とうしゅうさい・しゃらく
写楽の作画期は、寛政6年5月から翌年の正月までの約10カ月間(閏月を含む)と推定されている。これは写楽の描いた役者が、どの狂言に登場するかを調べて割り出したもので、この期間に140数点の作品を残している。しかし、その中に修業時代のものと思われる早い頃の作品が残っておらず、どのようにして絵を学んだのかも不明である。しかも一度に大量の作品を描き、わずか10カ月で活動をやめている。他の浮世絵師にはみられないことである。
写楽と同時代に活躍した初代歌川豊国は、寛政6年正月から「役者舞台之姿絵」の連作を出し大変な人気を得た。同じ年の5月に出た写楽が10カ月で姿を消したのに対し、豊国はこの成功によって、役者絵の第一人者となった。豊国は、当時の人々が役者絵に求めていたものを理解して作画していたようである。役者の容貌のくせはそれと分る程度に理想化し、全身像では見得を切った姿が歯切れよく描かれており、画面から華やかな舞台の雰囲気が伝わってくる。
それに対して写楽の絵は、役者の容貌は誇張され、けっして美しいとはいえない風貌に描かれており、その人物の内面にまで肉薄するような表現である。当時の人々は華やかで瑞々しい画風の豊国を支持し、写楽は人気を得ることはできなかった。しかし明治に入り、ドイツ人のユリウス・クルトが、その著書『Sharaku』のなかで写楽の素晴らしさを取り上げたことをきっかけに、写楽の浮世絵は、役者の芸質までもとらえた崇高な芸術作品として世界的に評価されるようになったのである。
徳島(21)-画人伝・INDEX
文献:東洲斎写楽と役者絵の世界