浜口南涯(1801-1865)と吉成葭亭(1807-1869)は同じ四条派で、画の評判は拮抗していたが、医を業としながら和歌や茶道などもたしなむ南涯に対し、大酒飲みで奇人の葭亭は、お互いにそりが合わなかったようである。葭亭の画風が大衆的で北斎風なところがあったため、南涯は「北斎の画は正法にあらず、画中の妖魔にして切支丹の如し」と言って暗に葭亭を非難していた。
吉成葭亭(1807-1869)よしなり・かてい
文化4年生まれ。名は亀次郎。長興と名乗った。徳島大岡本町の人。父は吉成多記太長則。家は代々藩の陣貝方だったため、葭亭も貝吹きの達人だった。奇行が多く画は速筆で、人物画をよくした。はじめ鈴江孝之助について書、画を学び、その後藩主に従って江戸に行き椿椿山に入門しようとしたが「貴下はすでに一家をなせり」といって断られた。好酒家で鈴江貫中といっしょによく飲んでいたという。代表作に「阿波盆踊図屏風」がある。明治2年、63歳で死去した。
浜口南涯(1801-1865)はまぐち・なんがい
享和元年生まれ。名は路輔、別号に無極斎、成秋がある。徳島佐古大裏の人。父は藩士だったが、水利奉行・伊沢滝三郎の悪だくみによって失脚し自刃した。幼いころから画がうまく、京都に出て竹内文郷に入門して医学を学びつつ松村景文に師事して四条派の画を学んだ。また、和歌を湯浅春緒、小倉真坂に、茶を古屋宗申に学んだ。江洲で10年間医を業としていたが、徳島に帰り船場で医を開業、画も描いた。山水、花鳥、人物にすぐていた。慶応元年、65歳で死去した。
鈴江孝之助(不明-不明)すずえ・こうのすけ
常三島の人。名は広容。鈴江貫中の父で藩士。手習師匠をしていたが、かたわら画を描いた。吉成葭亭のはじめの師だった。
堀江鉄舟(1825-1899)ほりえ・てっしゅう
文政8年生まれ。名は嘉太郎。別号に梅涯がある。那賀郡今津浦の人。浜口南涯に学び、柴秋邨にも師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品した。明治32年、75歳で死去した。
村上南嶺(1836-1916)むらかみ・なんれい
天保7年生まれ。名は芳太郎。徳島佐古の人。父は安太郎。浜口南涯に師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品した。大正5年、81歳で死去した。
林巨渓(1810-1856)はやし・きょけい
文化9年生まれ。名は坦太郎、諱は道一。坂野大谷の人。鉄復堂について経史を学び、吉成葭亭について四条派の画を学んだ。安政3年、47歳で死去した。
矢島董文(1830-1881)やじま・とうぶん
天保元年生まれ。徳島住吉島の人。藩の小道具方だった。吉成葭亭の門人。明治14年、52歳で死去した。
矢野寛古(不明-不明)やの・かんこ
徳島住吉島の人。吉成葭亭の門人。
徳島(17)-画人伝・INDEX
文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑