栃木県芳賀郡中川村(現在の茂木町)に生まれた古田土雅堂(1880-1954)は、上京して東京美術学校日本画科に学び、卒業して間もなくアメリカに渡った。シカゴで働きながら美術を学び、翌年にはニューヨークにあったモリムラブラザーズ(ノリタケの前身)に入社し陶磁器絵付けの仕事に就き、大正13年に退職するまで多くの食器デザインを手がけた。
一方で、清水登之や石垣栄太郎らニューヨーク在住の日本人画家たちと交流し、インディペンデント展などで油彩画を発表し、画家としての創作活動も行なった。キュビスムや未来派を思わせる作風は注目を集めたが、帰国後の制作では前衛的な傾向は影をひそめた。
大正13年、子どもの教育などの問題もあり退職して帰国することを決意したとき、日本では関東大震災があり、帰国しても住宅の手当てができないという風説が流れていた。そのため、アメリカ製組立住宅を急ぎ注文し、宇都宮での自宅とすることにした。
宇都宮においてアメリカ製の住宅が建築されたのは、おそらく古田土邸が初めてで、当時の地元の新聞でも大きく報じられた。その2階建ての洋館は「文化住宅」として羨望され、「軍道のホワイトハウス」とも称され、当地のランドマーク的な存在となった。その後75年間に渡って使用されたが、周辺の市街化が進んだため移築されることになり、平成11年、故郷の茂木町に記念館として復元・保存され、翌年茂木町指定有形文化財に指定された。
古田土雅堂(1880-1954)こたと・がどう
明治13年栃木県芳賀郡中川村(現在の茂木町)生まれ。本名は古田土貞治。明治35年東京美術学校日本画科卒業、明治39年渡米し、シカゴで働きながら美術を学んだ。翌年12月に発行された農商務省の海外実業練習生名簿に古田土の名前が見られる。同年モリムラブラザーズに入社、大正13年4月に退社するまで、一時帰国を除きニューヨーク勤務の図案部デザイナーとして活躍した。大正13年帰国。アメリカから組立式住宅を輸入し宇都宮に建築したことでも知られる。昭和29年、74歳で死去した。
栃木(25)-画人伝・INDEX
文献:ゆく河の流れ 美術と旅と物語、ノリタケデザイン100年の歴史、栃木県の近代化遺産