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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま北関東地方を探索中。



画人伝・栃木 洋画家 風俗図・日常風景

20世紀初頭のアメリカで独自の画風を確立させた清水登之

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清水登之「ニューヨーク、寄のチャイナタウン」栃木県立美術館蔵

清水登之「ニューヨーク、寄のチャイナタウン」栃木県立美術館蔵

清水登之(1887-1945)は、栃木県下都賀郡国府村(現在の栃木市)の大地主の家に生まれた。絵画好きの父の影響で、子どものころから絵に親しみ画家になる夢も持っていたが、中学の先生の勧めもあり、軍人を志して陸軍仕官学校を受験するため東京の学校に転校した。しかし、翌年の受験に失敗し画家への思いが再燃、明治40年、画家になる決意を固めて20歳で単身アメリカに渡った。

アメリカに着くと下宿屋で働きはじめ、その後も農場や製材所などで朝から晩まで働くだけの日々が続いた。このころのアメリカは、ナショナリズムの高揚した時代で、人種差別も厳しく日本人排斥運動も起こっており、石を投げられたり、罵倒されることも珍しくなかったという。清水は、生活の糧を得るために各地を転々としたのち、渡米から約5年、やっとシアトルに落ち着き、オランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入ることができた。同塾には田中保もいた。

フォッコ・タダマの画塾では、第1回、第2回の塾展に多くの作品を出品し、やっと画家としてデビューすることができた。しかし、保守的なフォッコの指導に疑問を持つようになり、大正6年ニューヨークに出ることになる。アメリカに来てから約10年、清水はすでに30歳になっていた。

ニューヨークでは、最初にナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学するが1カ月あまりで退学、次にアート・スチューデント・リーグに入り、ジョージ・ベローズやジョン・スローンたちのもとで学んだ。ここでも仕事をしながら美術学校に通う日々だった。国吉康雄、石垣栄太郎らとはこのときに知り合い、のちにニューヨーク在住の日本人作家たちとニューヨーク画彫会を組織し展覧会も開催した。

大正8年、13年ぶりに帰国したが、結婚して翌年妻を伴って再度アメリカに渡り、ニューヨーク郊外に住んだ。大正10年、シカゴで開催された第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景」を出品、受賞が決まったが、その直後、清水が外国人であるという理由で撤回されることになり、この排他的な行為に非難が集まり結局受賞、このことがきっかけで清水の名声は逆に高まることになった。

大正13年、初渡米以来17年ぶりに待望の渡仏を果たし、美術館に通って古典を研究した。その後はフランスを拠点にスペイン、ベルギー、オランダなどを旅し、昭和元年イタリア、上海をまわって帰国した。帰国後は二科展、中央美術展に出品していたが、西欧美術の模写からの自立、独立を目指す児島善三郎、里見勝蔵、林武、三岸好太郎らに共鳴し、独立美術協会の創立に参加、以後は独立展を中心に活動を続けた。

清水登之「陶土の丘」栃木県立美術館蔵

清水登之「陶土の丘」栃木県立美術館蔵

清水登之(1887-1945)しみず・とし
明治20年栃木県下都賀郡国府村(現在の栃木市)生まれ。明治40年、20歳の時に渡米し、働きながらシアトルのフォッコ・タダマの画塾で絵画の基礎を学んだ。大正6年ニューヨークに出てアート・スチューデント・リーグで苦学しながら制作に励み、当時のアメリカの絵画の影響を受けた独自の画風を確立していった。大正10年アメリカ絵画彫刻展での受賞をきっかけに頭角を現し、インディペンデント・アーティスト展を主な発表の場とし、サロンズ・オブ・アメリカ展などにも出品した。大正13年フランスに渡り3年後に帰国。帰国後は二科展などに出品し、昭和4年に樗牛賞、翌年二科賞を受賞した。昭和5年独立美術協会の創立に参加し、以後独立展に出品した。昭和20年、59歳で死去した。

栃木(24)-ネット検索で出てこない画家

文献:清水登之、ゆく河の流れ 美術と旅と物語、栃木県の美術、栃木人-明治・大正・昭和に活躍した人びとたち、栃木県歴史人物事典









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