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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま北関東地方を探索中。



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明治最初期に師範学校の図画教員を長くつとめた河野次郎

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河野次郎「長野郊外」

河野次郎「長野郊外」

河野次郎(1856-1934)は、足利藩の江戸藩邸に生まれ、明治時代最初期の美術教育者として師範学校の図画教員を長くつとめた。教え子には中村不折や結城素明らがいる。大正から昭和初期にかけて活躍した河野通勢の父親で、通勢の画業にも影響を与えたと思われる。油彩画や水彩画だけでなく銅版画や石版画も手掛け、後年には写真家として活躍した。

江戸生まれの河野は、12歳の時に藩命によって足利に帰藩し足利学校に入った。この頃、田崎草雲に南画を学んだ。18歳で再び上京して高橋由一に洋画を学んだと思われる。由一の画塾「天絵学舎」の名簿に河野の名前はないが、孫の通明によれば、通勢の素描の裏に由一に学んだ旨の記述があったという。

20歳の時に愛知県師範学校(のちに愛知第一師範学校と改称)に画学教員として勤務。一時期は愛知県中学校(のちに愛知県第一中学校と改称)も兼務した。26歳の時に長野県師範学校松本学校に移り、同校には松本から長野への移転を経て40歳まで勤務した。その間、33歳頃にハリストス正教の洗礼を受けたと思われる。

40歳で師範学校を退職してから、長野市南県町に「河野写真場」を開業、写真家としての活動を始める。写真への興味は早くからあったと思われるが、通勢の水彩画の裏書から、遅くとも明治26年にはカメラを所持していたと推測される。西洋文化が移入されはじめた明治初期に、次々と新しいものに興味を示していた河野の姿勢がうかがえる。

長野では、写真とともに長野正教会の会員として布教につとめていたが、71歳の時に急に体調をくずし、東京上十条に住んでいた通勢と同居するために上京、翌年通勢とともに小金井に転居した。この頃には写真撮影から遠のいており、再び油彩画を描くようになっていた。画家として成功していた通勢の父親として新聞記事にも紹介され、自作展覧会を開く予定もあったとされるが、実際に個展が開催されたかどうかは定かではない。

河野次郎(1856-1934)こうの・じろう
安政3年江戸神田小川町・足利藩邸生まれ。足利戸田藩士・杉本奥太郎安志の三男。慶応4年官軍の江戸城入城にともない、藩命により足利に帰藩、同時に足利学校に入った。この頃、田崎草雲に南画を学んだ。明治7年上京し高橋由一に洋画を学んだ。明治9年河野権平家に養子として入籍。同年から明治15年まで愛知県師範学校に画学教員として勤務、一時期、愛知県中学校も兼務した。明治15年から明治29年まで長野県師範学校松本支校に勤務。明治22年にハリストス正教の洗礼を受けたとされる。明治29年長野市に「河野写真場」を開業。この頃に号を「無声」と改め、終生これを使った。昭和9年、77歳で死去した。

栃木(26)-ネット検索で出てこない画家

文献:河野次郎と明治・大正の画人ネットワーク









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