画人伝・新潟 洋画家 人物画

農村に暮らす人々の生活を題材にした佐藤哲三

佐藤哲三「赤帽平山氏」宮城県美術館蔵(洲之内コレクション)

佐藤哲三「赤帽平山氏」宮城県美術館蔵(洲之内コレクション)

佐藤哲三(1910-1954)は、新潟県長岡市に生まれ、ほどなく父親の実家があった新発田市に移った。4歳の時に脊椎カリエスを患ったため3年遅れで小学校に入学し、15歳で尋常高等小学校を卒業した。東京美術学校に進んだ長兄の影響もあり、絵は13歳頃から描くようになり、特別な師にはつかず、ゴッホやレンブラントらの画集や複製画を見ながら独修した。

17歳の時に第1回大調和展に7点の作品を出品するが、すべて落選し、納得いかない哲三は、落選理由を訪ねに上京して事務所に押しかけ、その時に対応した梅原龍三郎に「もっと実物を見て勉強しなければいけない」との教示を受け、この梅原からの教えを励みに独自の道を歩みはじめる。

その翌年の国展で初入選を果たし、昭和5年の第5回国展では「赤帽平山氏」(掲載作品)が最高賞の国画奨学賞を受賞、その翌年も「郵便脚夫宮下君」で同賞を2年連続で受賞し、一躍中央画壇の注目の的となった。

その後も東京に進出することなく、郷里新潟に制作の基盤を置き、新発田大善寺小路にあった高野大工店の2階に洋画研究所を開設して地元の画家たちと交流し、かたくなに故郷の風景を描き続けた。

昭和14年、結婚を機に加治村に住まいを移し、以後蒲原平野で暮らす農村の人々の生活に題材を求めるようになった。この頃から地域の子どもたちを集めて絵画指導をするようになり、戦後は、教員組合や村の民主化運動にも熱心に取り組み、そのため制作活動に数年間の空白期間が生じたが、昭和25年頃から制作を再開した。

しかし、民主化運動や組合運動で奔走するなかで次第に体調を崩し、制作再開から没するまでの数年間は、病をおしての制作となった。昭和28年の第27回国展には「みぞれ」など3点を出品し、同年新潟市の小林百貨店で個展を開催したが、その翌年、骨髄芽球無白血病のため44歳で死去した。病床で描き続けていた「帰路」が絶筆となった。

佐藤哲三(1910-1954)さとう・てつぞう
明治43年長岡市生まれ。まもなく新発田市に移った。少年の時から油彩画を描き、昭和2年に大調和展に落選したことがきっかけとなって、梅原龍三郎の指導を受けた。昭和3年から国展に出品し、第5回展、第6回展で連続して最高賞の国画奨学賞を受賞。第7回展で毎日新聞社賞を受賞し、国画会会友となり、昭和18年会員に推挙された。昭和14年に加治村に移住し、以後農村とそこに生きる人々を題材した。また、昭和18年まで村の子どもたちに絵画指導をし、戦後は地域の民主化と文化活動にとりくみ一時画作から離れ、晩年に再開した。昭和24年に再び故郷の新発田市に戻り、療養を続けながら制作し、昭和28年第27回国展に出品したが、翌29年、44歳で死去した。

新潟(45)-画人伝・INDEX

文献:佐藤哲三の時代、佐藤哲三展、洲之内徹と現代画廊 昭和を生きた目と精神、気まぐれ美術館-洲之内徹と日本の近代美術-、新潟の絵画100年展、新潟の美術、越佐の画人、近代美術館とコレクション 新潟の美術、新潟市美術館 全所蔵作品図録(絵画編)、越佐書画名鑑 第2版




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