張月樵(1765or1772-1832)は、彦根城下の表具師・総兵衛の子として生まれた。幼いころから画を好み、同郷の市川君圭に学び、その後京都に出て与謝蕪村門下の松村月渓に師事し、師の号から一字とって「月樵」と号した。
その後師の月渓は、蕪村門から円山応挙門に移り「呉春」と改号して四条派の祖となったが、月樵も応挙の影響を受けたと思われ、応挙・呉春の写実的な画風に誇張を加え、華やかさや面白さを追求した独自の画風を確立していった。
応挙門下では特に長沢蘆雪と親交があり、応挙が没してのち、寛政10年頃には連れ立って旅に出ている。二人は京都から美濃まで旅を続け、名古屋に立ち寄ったが、その後月樵は名古屋に定住することになる。
当時の名古屋画壇は、のちに京都で活躍する中林竹洞、山本梅逸(参考)をはじめとする南画系の絵師たちが台頭してきており、その中心にいたのは、尾張南画中興の祖と称される山田宮常だった。月樵は宮常に傾倒して名古屋に住み着き、尾張徳川家の御用もつとめて名古屋城内の杉戸・襖絵などを手掛け、帯刀も許されたという。
月樵は、写実的な描写をいち早く名古屋に持ち込んだ絵師の一人とされ、その画業は高く評価されているが、名古屋を中心に活動していたため全国的な画名が高いとはいえない。それを嘆いた俳人の正岡子規は、『病床六尺』の中で月樵について「月樵ほどの画かきは余り類がないのであるのに、世の中の人に知られないのは極めて不幸な人である」と記している。
関連記事:尾張の四条派、張月樵の門人
張月樵(1765or1772-1832)ちょう・げっしょう
明和5年近江国彦根城下職人町生まれ。表具師・総兵衛の子。名は行貞、字は元啓、通称は晋蔵、のちに快助。別号に酔霞堂がある。はじめ市川君圭に学び、のちに京都に出て松村月渓に師事し「月樵」と号した。応挙門下の長沢蘆雪と連れ立って旅に出て名古屋に立ち寄りそのまま定住し、尾張徳川家の御用絵師として名古屋を拠点に活動した。天保3年、63歳で死去した。
滋賀(12)-画人伝・INDEX
文献:奇才の絵師 張月樵 彦根-京-名古屋への道、彦根ゆかりの画人、近江の画人、近江の画人たち