高田敬輔(1674-1755)は、近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野大窪町杉野神)に生まれた。祖先は藤原氏の出自で、永禄年間に高田姓となり、織田信長に従って尾張にいたが、敬輔の曽祖父の代になって近江日野に住むようになった。
実家は薬種商をしていたが、近所にはこの地の伝統的特産物である日野塗を営む家もあり、日野塗の塗師から絵師になる者もいたことから、敬輔も幼いころから画に興味を持っていたと思われる。のちに京狩野4代目の狩野永敬に狩野派の画法を学び、さらに画僧・古磵について雪舟(参考)の古法を学んだ。
高田家の菩提寺である日野の信楽院には、敬輔の作品が多く残っている。天井画(掲載作品)としては、雲龍、八大竜王、韋駄天、蓮華、飛天などが描かれており、これらの画は、落款から敬輔が70歳の時に描かれものとみられている。
信仰心が厚く、華厳宗や浄土宗の僧らに仏理を問うなど熱心な仏教徒でもあり、仏画を多く手掛けている。その画業を仁和寺法親王や皇女林丘寺秀尊尼らに高く評価され、62歳で法橋に、69歳で法眼に叙され、その後は高田法眼と称した。
多くの門人がおり、曾我蕭白をはじめ、近江商人で下野に鮎画を中心とした画風を伝えた島崎雲圃、雲圃に学び敬輔にも師事した下野の小泉斐、風俗画家として大成した月岡雪鼎らがいる。
高田敬輔(1674-1755)たかだ・けいほ
延宝2年近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野大窪町杉野神)生まれ。名は隆久、のちに父の名乗っていた徳左衛門を継いだ。住んでいた竹隠斎、梅桃庵から別号に竹隠斎、梅桃老人があり、60歳以後は眉間に生えた長い毛から眉間毫翁と称した。幼いころから画を好み、京狩野4代の狩野永敬に師事し、さらに僧古磵について雪舟の画法を学んだ。享保20年に62歳で法橋、69歳で法眼に叙され、以後高田法眼と称した。晩年は江戸をはじめ諸国を巡り、最晩年には故郷の日野に帰った。宝暦5年、82歳で死去した。
狩野永敬(1662-1702)かのう・えいけい
寛文2年生まれ。狩野山楽を祖とする京狩野4代。狩野永納の長子。本姓は藤原、通称は縫殿助、求馬。別号に仲簡子、幽賞軒、松陰子などがある。元禄15年、41歳で死去した。
古磵(1653-1717)こかん
承応2年生まれ。浄土宗の画僧。名は明誉、号は虚舟。大和国郡山の西厳寺から京都の報恩寺や浄福寺の住職をつとめ、西岩倉に隠棲した。画を永敬の父である京狩野3代の狩野永納に学び、のちに雪舟に私淑して山水画を描き、特に大黒天を得意とした。享保2年、65歳で死去した。
滋賀(06)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人たち、近江の画人、近江湖東・湖南の画人たち