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ニシムイ美術村と沖縄の洋画家

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安谷屋正義「残照」沖縄県立博物館・美術館蔵

戦後、沖縄は米軍による軍政という異民族支配を受けることになった。米軍は沖縄の文化芸術を高く評価し、1948(昭和23)年には、首里儀保町に「ニシムイ美術村」を建設、沖縄の画家たちは美術村に建てられたそれぞれのアトリエで芸術活動を再開した。ニシムイ美術村には、画家を志す若者たちをはじめ、文学者や文化人らが集まり、芸術を介したゆるやかなコミュニティが形成されていった。

ニシムイ美術村で主導的な役割を果たしたのは、学生時代を池袋のアトリエ村で過ごした名渡山愛順(1906-1970)、山元恵一(1913-1977)をはじめとする画家たちだった。これに、終戦を戦地や本土で迎えた、玉那覇正吉、具志堅以徳、金城安太郎、安次嶺金正、安谷屋正義らが加わり、戦後初めてのモダニズムを受容する美術グループ「五人展」が結成された。なかでも安谷屋正義(1921-1967)は、1960年代を通じて、沖縄美術をリードする美術家となった。

ニシムイの画家たちは、自身の活動だけに留まらず、広く沖縄の美術文化の発展に貢献する活動をしている。1948(昭和23)年に創設され、現在も続いている沖縄美術展覧会(沖展)は、沖縄の地元紙「沖縄タイムス」と協力し、名渡山がアドバイザーとなり、大城や山元らが審査をして展覧会を実現させた。また、琉球大学で後進の指導にあたるなど、戦後の沖縄美術のひとつの流れを作ったといえる。

1967(昭和42)年、安谷屋正義が没すると、ニシムイ美術村は求心力を失い、1972(昭和47)年の祖国復帰に伴う沖縄臨時国体開催記念事業の環状2号線道路の建設工事で、美術村の一部が削り取られ、美術家たちも分散し、24年の幕を閉じることになった。

安谷屋正義(1921-1967)
1921(大正10)年東京生まれ。両親ともに沖縄だが、父の仕事のため東京で生まれた。沖縄県立第二中学校で比嘉景常に学び、美術同好会「樹緑会」に参加した。1940年東京美術学校図案科に入学し、1943年に繰り上げ卒業し従軍、輸送船の指揮官になった。1946年沖縄に帰郷、同年ニシムイに住宅兼アトリエを設計して建設した。1949年から沖展に出品。1950年五人展を結成した。1953年からは春陽展にも出品。1954年から琉球大学で教鞭をとった。1958年には五人展を解消し、創斗会を結成した。1960年代には基地をテーマにした作品を発表した。1967年、46歳で死去した。

名渡山愛順(1906-1970)
1906(明治39)年沖縄生まれ。沖縄県立第二中学校で比嘉景常に学び、在学中に美術同好会「樹緑会」を結成した。1927年に東京美術学校西洋画科に入学、在学中に帝展に入選した。1930年頃に下落合に転居し同郷の後輩・山元恵一らと一時期ともに暮らした。1932年に帰郷し、県立第二高等女学校の美術教師になった。戦前、戦中、戦後を通じて美術教育のかたわら活発な制作活動、文化運動を展開した。1970年、64歳で死去した。

大嶺政寛(1910-1987)
1910(明治43)年沖縄生まれ。沖縄県立第二中学校で比嘉景常に学び、美術同好会「樹緑会」に参加した。沖縄師範学校卒業後、美術教師として伊江島、那覇尋常小学校、那覇市立商業高校に赴任した。1932年春陽会展に入選以来、戦前、戦後を通じて春陽会に所属した。1942年沖縄県立題一高女兼沖縄師範女子部美術教諭として美術教育に貢献した。戦後は沖展の創立運営に参加。沖縄民芸協会会長をつとめ、文化振興にも功績を残した。1987年、77歳で死去した。

大城皓也(1911-1980)
1911(明治44)年沖縄生まれ。本名は大城貞尚。沖縄県立第二中学校で比嘉景常に学び、美術同好会「樹緑会」に参加した。1930年東京美術学校西洋画科に入学、在学中に白日会展、1930年協会展に入選。また、南風原朝光らと東京で「沖縄美術協会」を結成した。1934年同校卒業後、帰郷し私立開南中学校の教師となった。戦前、戦後を通じて一貫して二科会に所属、1964年会員となった。沖展創設に参加し、その中枢として活躍した。その間、琉球大学芸術科助教授、二科会沖縄支部長などをつとめ、後進の指導にも大きく貢献した。1980年、69歳で死去した。

山元恵一(1913-1977)
1913(大正2)年沖縄生まれ。沖縄県立第二中学校で比嘉景常に学び、美術同好会「樹緑会」に参加した。1931年に上京して翌年頃から落合の名渡山愛順宅に下宿。東京美術学校油絵科卒業後、1938年に同級生の杉全直らが結成した「貌」に参加、シュルレアリスムに影響を受けた作品を発表した。1941年比嘉景常の後任として沖縄県立第二中学校の美術教師となった。1944年には防衛隊として徴用され沖縄で終戦を迎えた。1948年ニシムイにアトリエを構えたが、2度の台風により全壊し、1950年石積みのアトリエを建設した。1952年には琉球大学美術工芸科助教授に就任、後進の指導にあたった。また、沖展の中核として創作活動を行なった。1977年、64歳で死去した。

文献:安谷屋正義展-モダニズムのゆくえ、池袋モンパルナスとニシムイ美術村、沖縄美術全集4

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)
講談社









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