1942(昭和17)年、ソビエト連邦のスパイ組織による日本国内での情報活動が発覚し、各メディアは「ゾルゲ事件」としてセンセーショナルに報道した。この事件の首謀者は、ドイツ人を父に、ロシア人を母に持ち、ナチに偽装入党したリヒャルト・ゾルゲと、元朝日新聞記者で時の首相・近衛文麿のブレーンだった尾崎秀実で、この二人の連絡係として検挙され、獄死したのが、沖縄県出身の画家・宮城与徳(1903-1943)である。
宮城は沖縄県の名護出身で、父親は宮城が生まれて半年ほどで移民としてアメリカに渡ったため、祖父母に育てられた。絵に興味を持ち始めたのは、小学校上級に進んだ頃で、担任だった比嘉景常の影響も大きかったと思われる。その後、県立師範に入学したが、体調を崩して療養生活を送ることになり、その間、祖父から沖縄の歴史や文化について教えられ、社会的矛盾についての自覚を深めていったと思われる。
16歳の時に、先に渡米していた兄の誘いでアメリカに渡り、父の営む農園を手伝っていたが、理由は定かではないが、まもなく父は農園を処分して帰国してしまった。宮城はアメリカに残り、かねてからの夢だった美術の勉強のために、カリフォルニア州立美術学校に入学、その後サンディエゴ官立美術学校に転校して絵を学んだ。
美術学校卒業後は、農園で働いたり、友人とレストランを共同経営したりしていたが、ふたたび絵を学ぶために、ロサンゼルスのマクドナルド・ライト絵画研究所に入学した。この研究所に在籍していた時にはすでに無政府主義文献やマルクス主義の文書を読み、思想は次第にコミュニズム(共産主義)へと向かっていたと思われる。この頃のアメリカは、大恐慌の影響で、西海岸でも日本人移民排斥運動は熾烈を極め、人権の国アメリカの幻想が崩れていくとともに、コミュニズムへの共感が育っていた時期だった。
28歳の時にアメリカ共産党カリフォルニア支部の日本人部に入党した。コミンテルン(共産主義政党による国際組織)の指令によって、日本に戻り、ゾルゲのもとで反戦のための情報活動に従うのは30歳の頃からである。ゾルゲと尾崎秀実との連絡にあたり、自らも軍関係の資料を巷間から広く集めた。しかし、共産主義運動がいわば合法化されていた頃のアメリカの経験は、日本では通用せず、1941年に検挙され、1943年40歳で獄死した。1944年には、ゾルゲと尾崎秀実の死刑も執行されている。
日本に戻ってからの宮城の活動といえば、故郷の人や知り合いを頼って情報網を作ることくらいだった。宇佐美承の『池袋モンパルナス』によれば、宮城は池袋の泡盛屋「梯梧」にも通っており、この店の女性店主は、宇佐美の取材に対して、宮城と野田英夫との関係にも言及している。野田英夫はアメリカ生まれの日系人の洋画家で、当時スパイ容疑がかけられていた。ただ、沖縄出身で宮城と同世代の南風原朝光や山之口貘との接点については語られていない。
共産主義の大ロマンに酔い、指令を受けて行動していた宮城だが、ドイツ大使館に出入りしていたゾルゲや、日本政府の中枢に食い込んでいた尾崎と違い、できることは限られていた。宮城は行動に行き詰まり、この仕事は絵描きの自分には向いていないのではないかと思い悩んでいたふしがある。掲載の「月光像」は、1934年から41の間に制作されたパステル画だが、関係者によると、この月光の顔は尾崎秀実によく似ているという。宮城は、月光と尾崎を重ねあわせることによって、密かに平和への祈りを表現していたのかもしれない。
宮城与徳(1903-1943)
1903(明治36)年沖縄県国頭郡名護生まれ。父は与徳が生まれて半年ほどで海外移民に出かけたため、兄・与整とともに母方の祖父母に引き取られ、そこで幼年期を過ごした。1911年名護尋常高等小学校に入学。1915年に同校を卒業して高等科に進んだ。1年生の時に同期の岸本金光とともに絵が入選し、作品が東京の展覧会に出品された。1916年渡米しブロウレイ公立学校外人部に英語を学ぶため入学。1920年絵の勉強のためサンフランシスコに行き、アルバイトをしながら美術学校に通学するが、学資が続かず2ヶ月で中退してロサンゼルスに戻った。1921年カリフォルニア州立美術学校に入学、翌年サンディエゴ官立美術学校に転校し、1925年に同校を卒業した。1928年ロサンゼルス・オリンピックビルで個展開催。1933年11月に日本に帰国し、ゾルゲに会い活動を協力する。1941年にスパイ容疑で逮捕、収監され、1943年、西巣鴨の東京拘置所において、40歳で死去した。
沖縄(20)-画人伝・INDEX
文献:宮城与徳遺作画集、池袋モンパルナス(宇佐美承)