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少女向けの抒情画家として名を高めた蕗谷虹児

蕗谷虹児「阿蘭陀船」

蕗谷虹児「阿蘭陀船」

蕗谷虹児(1898-1979)は、新潟県新発田市出身の両親の駆け落ち先(水原町と推測されている)で生まれた。父が20歳、母が15歳の時だった。父親は地方新聞の記者をしていたが、酒の失敗から新聞社を転々としていて、いつも貧しく、母は虹児が13歳の時に他界した。

母の死により一家は離散し、虹児は幼い弟2人の面倒をみながら働き、洋服店、株式仲買店、印刷会社と丁稚奉公を転々として家計を助けた。そのような状況のなかでも、画家になるという志を持ち、夜は南画を習った。

14歳の時に当時の新潟市長に画才を認められ、上京して同郷の日本画家・尾竹竹坡の内弟子となった。2年後、郷里で再婚していた父の失業によりいったん帰郷し、映画館の絵看板を描いて父の借金を清算し、一家を支えた。このあと、父は就職のため樺太に移住した。

大正4年、17歳で再上京して文展出品の準備をはじめていたが、故郷での人妻との恋が発覚し、そのトラブルから逃れるため東京を離れて父の住む樺太へ渡り、その後は旅絵師として美人画を売りながら各地を巡り、足掛け5年を放浪して過ごした。

21歳で東京に戻り図案社で住み込みで働くようになった。この頃竹久夢二と知り合い、夢二の紹介で「少女画報」に挿絵を描くようになり、はじめて「虹児」の雅号を用いた。この挿絵が少女たちの絶大な支持を得て、虹児はたちまち人気挿絵画家となった。

さらに、22歳の時に手がけた朝日新聞の連載長編小説「海の極みまで」(吉屋信子)の挿絵が評判となり、各社から仕事が殺到、宝文館の「令女界」や講談社の「少女倶楽部」に、創刊とともに表紙や口絵を描き、少女向けの抒情画家として名を高めていった。

一方で、詩、小説などの文筆も手がけ、抒情詩と抒情画とを組み合わせた「虹児画譜」と名付けた詩画集を多数刊行、詩人としても知られるようになった。

なかでも、「きんらんどんすの帯しめながら」で始まる「花嫁人形」は、童謡としても広く歌われる虹児の代表作となったが、この詩は、大正13年、虹児が25歳の時、「令女界」2月号に掲載予定だった西條八十の詩が間に合わず、急遽詩を自作して絵に入れたもので、これが「花嫁人形」の初出となった。

若くして時代の寵児となった虹児だが、挿絵画家の活動にあきらたず、本格的に絵を学ぶため、大正14年、26歳の時にフランスに渡り、パリで生活してサロン・ドートンヌ、サロン・ナショナルなどの公募展に出品した。また、個展を開いたり、雑誌の表紙絵を依頼されて描いたりした。

ところが、東京に残した弟家族の生活が立ち行かなくなり、昭和4年に帰国。その後は、借金返済や生活のために再び挿絵画家の生活に戻るが、パリで身につけた洗練された叙情画が、虹児の人気をさらに高め、虹児第2の絶頂期を迎えた。

しかし、昭和12年の日中戦争の勃発とともに時代は次第に戦時色に染まっていき、軍から虹児の絵は「柳腰の女の絵はよろしくない」と非難され、「非戦時的画家」扱いされたため活躍の場は狭まっていった。

昭和19年、戦禍を避けて神奈川県足柄上郡山北町に疎開、終戦後は各少女雑誌の復刊とともに挿絵画家として活動を再開したが、新しい時代の流れのなかで少女雑誌は徐々に衰退していき、やがて漫画雑誌にとって代られ、虹児の活躍の場は再び狭まっていった。

雑誌の仕事が減少するなかで、虹児の主な仕事は絵本の挿絵へと移行していき、『魚姫』『かぐや姫』『孫悟空』などの童話に鮮やかな色彩で描いた挿絵を寄せた。また、絵本の仕事と並行しながら、アニメーションにも挑戦した。昭和43年には「画業五十年記念蕗谷虹児叙情画展」を開催、以降は個展を中心に発表を続けた。

蕗谷虹児(1898-1979)ふきや・こうじ
明治31年新発田市生まれ。本名は一男。14歳の時に画家を志して上京、同郷の尾竹竹坡の内弟子となった。2年後一旦帰郷して再上京したが、その後5年間放浪し、21歳で東京に戻り竹久夢二の紹介で描いた「少女画報」での挿絵が好評を得た。以後、「令女界」や「少女倶楽部」をはじめとする各誌に、口絵や詩画を発表し、また童話や童謡の挿絵も数多く描いて、叙情的挿絵画家として名声を確立した。大正14年渡仏し、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナルに毎年出品して、昭和4年に帰国。昭和19年、戦禍を避けて神奈川県足柄上郡山北町に疎開したが、戦後の各誌復刊とともに挿絵画家として活動を再開。その後、絵本の挿絵、アニメーションも手がけた。詩画集『花嫁人形』自画伝『乙女妻』など多くの著作がある。昭和54年、80歳で死去した。

新潟(35)-画人伝・INDEX

文献:少女達の夢と憧れ 蕗谷虹児展、新潟の美術、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版




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