田村豪湖(1873-1940)は、南魚沼郡中之島村(現在の新潟県南魚沼市)の農家の四男として生まれた。幼いころから絵を描くことが得意で、7歳の時に病により片足が不自由になったこともあり、早くから画家を志すようになったという。
15歳の時に橋本独山に和漢の書画を学び、ついで17歳の時に群馬沼田の青木翠山について2年余り学び、その後上京して佐竹永湖に師事、5年余り本格的に日本画を学んだ。師永湖はその画才を認め、自分の号から一字とって「豪湖」の号を与えた。
展覧会は、師永湖一門が拠点としていた日本美術協会や、日本美術協会の分派とされる日本画会、正派同志会など旧派の美術展のほか、新派の日本美術院や日本絵画協会にも出品した。文展では、第3回展に初入選したのち5回入選し、2回褒状を受けた。
また、寺崎広業門下の鳥谷幡山、本多穆堂らによって結成された美術研鑽会にも主要メンバーの一人として参加し、日本各地の名勝に取材し、実景を踏まえた山水画を多く描いた。
旧来の粉本に頼った山水表現から脱却し、真景図を指向したその画風から、同世代の小室翠雲や小坂芝田らと同じように、明治の南画変革期にあって南画の近代化の一翼をになった存在といえる。
田村豪湖(1873-1940)たむら・ごうこ
明治6年南魚沼郡中之島村(現在の南魚沼市)生まれ。字は愿郷、名は代吉。別号に孤足軒、有神館などがある。画家を志して若くして上京、谷文晁系の画人・佐竹永湖について学んだ。日本美術協会展、日本画会展、美術研鑽会展などに出品、文展では2回褒状を受けた。新潟市西堀通四番町(現在の新潟市中央区)の善導寺や、西蒲原郡小吉村(現在の西蒲区高野宮)の若宮八幡神社の天井画を制作した。昭和15年、68歳で死去した。
橋本独山(1869-1938)はしもと・どくざん
明治2年南魚沼郡大木六村(現在の南魚沼市)生まれ。幼名は松次郎。明治18年京都に出て富岡鉄斎に画を学び、京都天龍寺の橋本峨山について得度して法名を玄義とし、のちに済宗、独山と改めた。その後、鹿王院住職を経て、明治42年に臨済宗相国寺と大通院住職をつとめた。明治43年に相国寺派管長に就き、昭和8年まで22年間つとめた。昭和13年、70歳で死去した。
新潟(22)-画人伝・INDEX
文献:越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版、日本画家・田村豪湖の人物と作品について:新潟県立万代島美術館研究紀要(19)