画人伝・群馬 南画・文人画家 山水・真景

日本南画院創立に加わるなど南画復興に尽力した小室翠雲

左:小室翠雲「寒林幽居」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 右:小室翠雲「谿山清暁」

左:小室翠雲「寒林幽居」宮内庁三の丸尚蔵館蔵
右:小室翠雲「谿山清暁」

小室翠雲(1874-1945)は、館林町(現在の群馬県館林市)の呉服商の家に生まれた。館林藩御用達商人をつとめていた小室家から分家した父・牧三郎は、風流を好み、文人墨客との交友が多く、足利の田崎草雲に作画を学び、渓村と号して画を描いていた。

翠雲は、幼いころから善導寺の僧・満成や館林藩儒者・田中惺斎に漢字、書法を、近隣に住んでいた岡戸仙渓や岸浪柳渓に画技の初歩を学び、のちに山下雪窓、高橋蘭舟、高林二峯に書法、国分青崖に詩文、荒井閑窓に俳句を学んだ。

13歳の時、小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働いていたが1年余りで帰郷。その後も家業を嫌い、父の猛反対にあいながらも画家になることを決意し、15歳の時から田崎草雲について本格的に南画修業を始めた。草雲没後は上京し、特定の師につかず、本郷の荒井閑窓の別荘に留守居番として寄寓し、独学で中国画を学んだ。

貧しい生活ながらも、石版の下絵描きや地方廻りの画会などで収入を得て、精力的に中央画壇との接触を図った。川端玉章や久保田米僊らのもとを訪問し、川村雨谷や高森砕巌らの組織する南画会に参加、28歳の時には日本美術協会展に出品し、以後同展で受賞を重ね、日本画会、南画会では幹事をつとめ、次第に名が知られるようになっていった。

明治40年、文部省美術展覧会(文展)創設の際、文部省による審査員の人選を不満とし、高島北海、荒木十畝、山岡米華らとともに「正派同志会」を結成し、日本画の革新を目指していた横山大観ら新派の「国画玉成会」と対抗しながら文展に出品、受賞を重ねて審査員をつとめるなど文展での地位を確立していった。

大正10年、田近竹邨、池田桂仙、山田介堂、三井飯山、水田竹圃、河野秋邨を中軸として京都に「日本南画院」が創立され、それに大阪の矢野橋村と東京の翠雲が合流。その後、竹邨ら中心作家が相次いで没したため、翠雲が会の中心的存在となった。南画壇の重鎮として活動し、大正13年には南画家としては富岡鉄斎についで帝国美術院会員に推挙された。

昭和10年に日本南画院が解散したため、それぞれの私塾が合併し、昭和16年に翠雲が代表となり「大東南宗院」が設立された。同年、群馬県美術協会が設立され、初代会長に就任。昭和19年、70歳の時に帝室技芸員に推挙された。

時代の潮流に乗って着実に地盤を固めていった翠雲は、その影響力をもって衰退しはじめていた南画復興のために尽力した。多くの門人を育てるとともに、南画に関する理解と知識を広めるために『南画新論』『翠雲随筆』などを著し、全国各地で講演を行うなど、南画界に大きな足跡を残した。

小室翠雲(1874-1945)こむろ・すいうん
明治7年館林生まれ。呉服商・小室牧三郎の長男。本名は貞次郎。初号は翠湖、のちに長興と号した。居は晩年佳麗庵と称した。別号に長興山人などがある。はじめ田崎草雲に絵を学び、かたわら田中謙三、山下雪窓について経史詩文を修めた。草雲の没後、上京し、日本美術協会に所属し、日本画会、南画会の幹事をつとめた。明治40年高島北海らと正派同志会を結成して文展新派に対抗した。翌年第2回文展で3等賞を受賞、以来受賞を重ね、第8回文展より審査員となり、帝展第1回展でも審査員をつとめ、その後もしばしばその任についた。大正10年矢野橋村らと日本南画院を創立、翌年には中国に渡った。大正13年帝国美術院会員となった。昭和6年ベルリンでの日本画展に代表して渡欧。昭和19年帝室技芸員となった。雑誌「南画鑑賞」を主宰し、南画の振興普及に力を尽くした。『南画新論』『翠雲随筆』などの著作のほかに、崇文叢書の刊行、師草雲関係では『硯田農舎印譜』『草雲遺墨集』などを編纂した。昭和20年、72歳で死去した。

群馬(17)-画人伝・INDEX

文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、『ぐんま』ゆかりの先人、北関東の文人画、北関東の近代美術、上毛南画史、郷土の芸術家たち(館林) 、群馬県人名大事典









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