狩野胖幽(1649-1730)は、本名を久隅彦十郎といい、狩野探幽門下の四天王のひとり・久隅守景の子として江戸に生まれた。父・久隅守景の妻は探幽の姪で、胖幽の他に雪信という娘がおり、2人とも探幽に師事して絵師となった。
姉の清原雪信(1643-1682)は、狩野派随一の女性絵師として人気を博したが、同門の絵師と駆け落ちし、弟の胖幽は、悪所(吉原)通いによって探幽から破門され、さらに同門の絵師が自分のことを師の探幽に悪く伝えたとして諍いを起こしたことから投獄され、佐渡に島流しとなった。
父の守景は、身内の不祥事が続いたため、その責任をとって探幽のもとを離れたと考えられている。
佐渡に渡った胖幽は、相川に住み、絵師として活動し多くの作品を残した。その画風は、江戸狩野派の筆法を忠実に継承したもので、人気があり、買い求める人が多かったという。その後、探幽の子である探信と探雪、探幽の甥・常信が連名で出した「赦免嘆願書」により、元禄5年赦免となり江戸に戻ったが、再び佐渡の妻子のもとに戻り、81歳で没するまで相川で画業にはげみ、画塾で後進の指導にあたった。
胖幽の画塾からは、相川の永宮寺松堂、山尾鶴軒、畑野の本間探兆ら地元のすぐれた絵師が出た。特に山尾鶴軒は、のちに江戸に出て狩野春賀に師事し、「扶桑名画伝」に「佐渡人にして中央画家譜に上れるのはただこの人あるのみ」と記されるほど画名を高めた。
狩野胖幽(1649-1730)かのう・はんゆう
慶安2年江戸生まれ。久隅守景の子。本名は彦十郎守則。母は狩野探幽の姪。探幽に師事したが、吉原通いが過ぎ、主人に対し不届きがあったとして、延宝2年佐渡に流罪になった。元禄5年赦免で江戸に戻ったが、その後再び佐渡に戻り永住し、地元の絵師を育て、佐渡における日本画発展の基礎を築いた。享保15年、81歳で死去した。
永宮寺松堂(1695?-1772)えいぐうじ・しょうどう
元禄8年頃相川町生まれ。名は順永、字は楚璞。15歳の時に京都に上って高倉学寮で学問を学び、書を寺井養拙・臼井子中に学んだ。画は狩野胖幽と鶴沢探鯨に師事したが、ほかに漢詩、和歌、俳句、挿花、茶など幅広い活動をおこなった。明和9年、78歳で死去した。
山尾鶴軒(1707-1757)やまお・かくけん
宝永4年相川町生まれ。名は政圓、通称は衛守。はじめ狩野胖幽に学び、享保14年、24歳の時に上京して狩野春賀、狩野憲信に学び、3年ほどで帰郷した。元文2年佐渡奉行・萩原美雅に認められて奉行所付の絵図師に登用され、主として金銀採製図などの製作を担当したとみられる。その後も章政、定政と代々絵図師をつとめ「衛守」を襲名した。宝暦7年、51歳で死去した。
本間探兆(不明-1837)ほんま・たんちょう
畑本郷村(現在の畑野町野高屋)生まれ。名は亭蔵。父の長顕が狩野胖幽の門下だった。少年のころから父に画の手ほどきを受け、のちに江戸に出て鹿島探春、狩野探信に師事し、師から一字を与えられて探兆守興と号した。短歌を詠むときは游林斎の号を用いた。佐渡に帰ってからは門人を育て、画家として暮らした。天保8年死去した。
新潟(03)-画人伝・INDEX
文献:佐渡相川郷土史事典、佐渡の美術、越佐書画名鑑 第2版