谷中安規(1897-1946)は、奈良県磯城郡初瀬村(現在の桜井市初瀬)に生まれた。6歳の時に母を亡くし、京城(現在の韓国ソウル市)で洋品雑貨店を開業していた父に連れられ13歳で朝鮮に渡ったが、その後、18歳で単身東京に移り、真言宗豊山派の中学に入ったが4年で中退し、その後は各地を放浪した。
25歳の時に永瀬義郎が著した『版画を作る人へ』をもとに独学で木版画の制作を始めた。31歳の時に日本創作版画協会展に初入選し、その後も日本版画協会(日本創作版画協会が昭和6年に改称)の会員として作品を発表した。
昭和7年、35歳の時に前川千帆(参考)の紹介で美術評論家の料治熊太が発行する雑誌「白と黒」の手伝いをするようになった。同誌は、発行部数50冊の、いわば手づくりの雑誌だったが、横井弘三、大内青圃、初山滋、井上三綱、棟方志功ら異色の画家たちが制作を手伝っていた。
雑誌は毎月赤字で、手伝っていた画家たちもみな貧乏だったが、そのなかでも特に貧しかったのは、青森からあてもなく上京していた棟方志功と、放浪を繰り返して自らを風来坊と称していた谷中安規だった。
将来が見通せない二人だったが、昭和8年、棟方志功は国展に発表した「大和し美し」が同展工芸部の審査をしていた日本の民芸運動の主唱者・柳宗悦に賞賛され、民芸作家の一人として迎えられ、次第に経済的にも恵まれるようになった。
それと時を同じくして、谷中安規も詩人の佐藤春夫や堀口大學らに才能を認められ、装幀・挿絵画家としていろいろな版元に紹介してもらい、昭和9年には内田百閒の『王様の背中』の挿絵を担当し、その後も内田の著書をはじめ数多くの挿絵・装幀を手掛けた。
しかし、原稿料が入ると、隣のカフェに行くのも、近所の銭湯に行くのも円タクを使い、魚屋にも麦畑にもすべてタクシーで乗り付け、明日は無一文になることがわかっていても金を貯えることはせず、いつも金に困っていた。
その風貌も異様で、やせ細った身体に他人にもらったダブダブの着物を着て、髪は伸びるにまかせ、歯は抜け、近づくと悪臭を放ち、下駄はすり減って板のようになっていた。激しい恋はしたがいつも一方的で、突然姿を消し、また放浪した。その風まかせの生き方に、内田百閒からは愛を込めて「風船画伯」と呼ばれていた。
戦時中も消息不明になっていたが、昭和21年、終戦の翌年に東京駒込駅近くの防空壕のなかで遺体で発見された。死因は餓死だった。
長く親交のあった料治熊太は、その著書『谷中安規版画天国』のなかで、「餓死して果てたということは、彼がどれほどこの世を純粋に生きたかを示すもので、小成に甘んずる輩のうかがい知ることの出来ない境地である」と記し、その死を悼んだ。
谷中安規(1897-1946)たになか・やすのり
明治30年奈良県磯城郡初瀬村(現在の桜井市初瀬)生まれ。6歳で母と死別し明治37年父と朝鮮の京城に渡った。単身帰国して東京の豊山中学に通ったが中退、以後放浪生活を続けた。大正11年永瀬義郎著『版画を作る人へ』をもとに独学で木版画制作を始めた。昭和3年第8回日本創作版画協会展に初入選。昭和6年日本版画協会(日本創作版画協会が改称)の会員となった。昭和7年版画誌「白と黒」「版芸術」の同人となり、以後12年まで作品を発表した。昭和9年内田百閒著『王様の背中』の挿絵を担当し、その後も内田の著書をはじめ数多くの作品の装幀や挿絵を手掛けた。昭和21年、49歳で死去した。
奈良(18)-画人伝・INDEX
文献:近代奈良の美術、大和風物誌、谷中安規版画天国、谷中安規 モダンとデカダン