不染鉄(1891-1976)は、東京小石川の光円寺住職の子として生まれた。浄土宗の名門・私立芝中学校に入学したが、素行不良のため放校となり、攻玉社中学校に転校したが、中学卒業後も進路が定まらず、少年の頃から絵が好きだったことから、19歳の時に小石川の川端画学校で指導していた山田敬中(参考)の門下生となった。
23歳の時に日本美術院の研究会員となり本格的に画を学びはじめた。同じ年に研究会員となった村山槐多(参考)と知り合い、深い共鳴を覚えるなど、仲間たちから刺激を受けつつ制作に向き合っていたが、やがて経済的、精神的に追い詰められて行き場を失い、その頃知り合った妻とともに伊豆大島に渡り、そのまま漁師の真似事をしながら3年間を過ごした。
大正7年、美術研精会で佳作を得たのを機に伊豆大島を引き上げて京都に移住し、京都市立絵画専門学校に入学して改めて画を学びはじめ、在学中に帝展で初入選を果たし、大正12年同校を首席で卒業した。また、同年大阪毎日新聞が主催した日本美術展覧会で、伊豆大島の岡田村での思い出を描いた「漁村」(掲載作品)が首席入賞となった。
昭和2年、奈良の西ノ京に住まいを移し、図画教師の職を得たが、昭和5年には神奈川県大磯町に移住し、昭和7年に東京都江戸川に移住した。その間も帝展に出品していたが、昭和10年の帝展改組を境に官展への出品が途絶え、その後は中央画壇から離れ、小室翠雲が創立した大東南宗院展に招待出品するなど、独自の道を歩んだ。
昭和21年、55歳の時に以前図画教師をしていた奈良の正強中学校の初代理事長が戦後の公職追放にあったため、かわりに不染が2代目理事長に就任することとなり奈良に戻り、その後校長となった。しかし、教育理念の違いから学校側と軋轢を生み、やがて同校を退くこととなった。
退職後は奈良の知人宅を転々としていたが、71歳の時に奈良市登大路町の知人の好意で敷地内にあばら屋を建ててもらい居を定めた。住まい兼画室には、自らの絵画や焼物、彫刻などを飾り、不染を慕う若い学生や芸術家をはじめ様々な人たちが絶えず出入りしていたという。
不染鉄(1891-1976)ふせん・てつ
明治24年東京市小石川区生まれ。父は光円寺住職。名は哲治、のちに哲爾。はじめ山田敬中の門下生となり、大正3年日本美術院研究会員となった。大正4年伊豆大島へ渡り3年間を過ごした。大正7年美術研精会で「秋声」が佳作を受賞。同年京都に移り京都市立絵画専門学校日本画科に入学。在学中の大正8年に第1回帝展で初入選し、以後も帝展で入選を重ねた。大正12年同校を首席で卒業。昭和2年奈良県生駒郡都跡村西ノ京に移住。昭和5年神奈川県大磯町に移住。昭和7年東京都江戸川に移住。昭和21年正強中学校の2代目理事長に就任し、以後奈良に住み、翌年同校校長に就任した。昭和51年、84歳で死去した。
奈良(15)-画人伝・INDEX
文献:不染鉄之画集