長野県下高井郡瑞穂村(現在の飯山市)に生まれた佐藤武造(1891-1972)は、中学時代に丸山晩霞らが講師をしていた水彩画夏期講習会に参加して認められ、中学卒業後に画家を志して上京、石版画工として働きながら、夜は丸山が開設した日本水彩画研究所で学んだ。ここでデッサンの指導を受けた荻原守衛のアドバイスに触発され、渡欧を決意する。
大正3年、23歳で英国に渡った佐藤は、家具修理や骨董品の手直しなどの仕事をしながら制作し、渡英翌年には伝統あるロイヤル・インスティテュート・ウォーターカラー展に入選した。佐藤の制作していた、絹本に水彩絵具や岩絵具で描く「絹絵」は英国では評判がよく、その後も次々と公募展に入選し、滞英7年目にはピカデリーのバーリントン画廊で初めての個展を開催、多くの美術雑誌が好意的な展評を掲載した。
大正10年、日本の皇太子(昭和天皇)が英国皇室を訪問した際には、タイムズ社の特集号の表紙を担当し、翌年のシカゴ・インターナショナル・ウォーターカラー展に招待出品した。その頃には、タケ・サトーとして高い名声を得て、英国画壇での地位を不動のものとしていた。
大正13年、関東大震災の報が入り、同年暮れに10年ぶりに帰国。日本の美術雑誌も佐藤の帰国を一斉に報道し、その翌年には銀座松屋で個展を開催、7年半の日本滞在中には日本水彩画展や構造社展にも出品したが、あまりよい評価は得られなかった。当時の日本美術界が欧州帰りの画家に期待していたのは、本場仕込みの油彩画であり、日本画家とも洋画家ともいえない画風の佐藤が活躍する舞台は十分に整っているとはいえなかった。
日本の画壇に居場所を見つけられなかった佐藤は、昭和7年再び渡英する。ロンドンに戻った佐藤は、さらに新しい表現を模索して漆の研究に打ち込み、近代感覚を盛り込んだ独自の漆絵を開拓し、家具や壁画などインテリア・デザインも手がけ、豪華客船クイーン・メリー号のインテリアやキャビネットなどのデザインも担当、活躍の場を広げていった。
しかし昭和14年、第二次世界大戦が勃発。佐藤はやむなく帰国して郷里の渋温泉に疎開、信州各地で漆絵展を開いて好評を得た。また、信州美術展や長野県展で審査員をつとめるなど、地元の美術振興にも貢献したが、もし佐藤が、フランスの藤田嗣治やアメリカの国吉康雄のように、タケ・サトーとして英国に留まっていたら、近代美術史における佐藤武造の評価も変わっていたかもしれないと、その海外での画業の中断を惜しむ声も少なくない。
佐藤武造(1891-1972)さとう・たけぞう
明治24年下高井郡瑞穂村(現在の飯山市)生まれ。明治42年飯山中学校を卒業して上京、石版画工をしながら日本水彩画研究所に通った。大正3年渡英。翌年ロイヤル・インスティテュート水彩画展に入選。同年ロンドン市立チェルシー美術学校に入学し油彩を学びはじめた。大正9年バーリントン画廊で個展開催。アメリカ、ベルギーなどでも作品を発表した。大正13年帰国。翌年銀座松屋で個展開催。日本水彩画展や構造社展にも出品した。昭和7年再渡英。漆絵の制作を開始。昭和14年帰国。日本橋高島屋などで瑞漆画個展開催。昭和19年渋温泉に疎開。昭和23年平穏村公安委員に就任。信州各地で瑞漆画個展開催。北信美術展や長野県展で審査員をつとめた。昭和47年、80歳で死去した。
長野(67)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第8巻、北信濃の美術 十六人集、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語