大原呑響(1761頃-1810)は、北方問題に生涯を捧げた儒者であり、画人としても優れた作品を残し、蠣崎波響や大原呑舟らを育てている。画において特定の師はいなかったようで、「書は張瑞図が法を慕い」と伝わるのみである。諸国を遊歴し、管茶山、田能村竹田、頼山陽ら多くの文人たちと交流している。寛政元年の西国遊歴の際には菅茶山の廉塾を訪れ、寛政6年には京都で連日交わり、掲載の「渓山帰樵図」には菅茶山の賛が入っている。
仙台藩東磐井郡大原村(現在の岩手県大東町)に生まれた呑響は、十代で塩釜神社の神官で国学者の藤塚知明のもとに住み込んで国学を学んだ。この時に北方問題に関心を持つようになったと思われる。その後、一関の儒者・藤倉龍城の門を訪れ、さらに江戸、長崎と足をのばし学問を深め、天明4年には松前を訪れた。
呑響の博学は、時の松前藩主・松前道広の知るところとなり、呑響は、寛政7年から一年あまり松前藩の北辺対策顧問をつとめることになった。当時の松前藩は、蝦夷地(北海道)を統括していたが、安永7年に国後島にロシア人が現れ、翌年には通商を要求してきており、松前藩では、こうした難局に対処するため優れた人材を求めていたのである。
呑響の松前行きに期待をかけた有識者は多く、蒲生君平と林子平は大原村を訪れて壮挙を祝し、頼山陽も漢詩を贈って喜んだ。しかし、呑響の政策が急進的な攘夷論だったため、保守的な藩の重臣たちには受け入れることができず、任務中にこれといった成果をあげることができずに大原村に帰ることとなった。
故郷に帰っても海防への情熱は失わず、すぐ水戸にたち、高野昌碩を訪ねて意気投合し、ついで水戸藩の儒者・立原翠軒のところを訪ね、3人で松前の様子を2日間にわたって語り明かしたという。
その時の議論を「墨斎綺談」にまとめ、海防政策を時の老中・松平定信に上申したが、その内容が、松前藩の北方国防に対する消極策を公にし、それに反論を加えたものだったため、幕府は松前藩に疑念を抱くようになり、寛政11年に松前道広は奥州梁川に左遷され、呑響もこの一件によってお預かりの身となり水戸の中山備前の援助を受ける身となった。
大原呑響(1761頃-1810)おおはら・どんきょう
仙台藩東磐井郡大原村生まれ。名は翼、字は雲卿、通称は観次、左金吾。本姓は熊谷。別号に墨斎がある。父は村の郷士で、学才高く詩学に長じていたため仙台あたりから教えを乞いにくる者もあったという。父の影響で少年の頃から諸国を遊歴し京都で書画をよくした。武術、兵学、砲術にも詳しく、海外の事情にも精通し海防を唱えた。文化7年死去した。
岩手(17)-画人伝・INDEX
文献:東北画人伝、藩政時代岩手画人録、菅茶山ゆかりの絵画展