画人伝・北海道 南画・文人画家 山水・真景

松前藩御用絵師・熊坂適山

熊坂適山「蘭亭曲水図」

松前藩が梁川に転封され、藩の家老だった蠣崎波響も梁川に移り住むことになったが、波響は縮小された藩の再興に力を尽くすとともに、絵筆を握り続けた。そうした姿に、地元では、波響はすぐれた画技を持つ代官だという好意的なうわさが広まった。

そのうわさを聞きつけた隣町・保原の熊坂適山(1796-1864)は、梁川を訪れ、波響に入門した。波響は適山に写生体を教え、また、波響自身が京都の文人たちと深く関わり、中国の文芸に対する高い教養を身に付けていたことから、漢詩などの指導も行なっていたと思われる。のちに適山は関西に出て著名南画家たちと交流することになるが、そのための下地は青年時代に培われていたのである。

文政4年、幕府が東西蝦夷地を松前藩に返還したため、波響も松前に戻ることになった。師を失った適山だが、しばらくは郷里の保原で制作を続け、文政7年、29歳を過ぎたころに、浦上春琴に入門するため郷里を出て京都に向かった。師を南画家の春琴に定めたのは波響の勧めだったと思われるが、当時は全国的に南画が活況を呈しており、特に京都には、頼山陽田能村竹田中林竹洞、山本梅逸らの南画家がいた。適山も師の春琴を介して、京阪の多くの南画家たちと交友を持ち、南画の描法を学び、漢籍詩文の能力や素養をさらに充実させていった。

天保元年、7年間修業した春琴のもとを離れ、適山は九州への旅に出た。関西以西の墨人たちと会い、かれらのもとに宿泊しながら西に向かい、長崎では鉄翁祖門に会い、その後は豊後の田能村竹田のもとを訪れた。こうして適山は、南画が最も華やかな時代に10年あまり遊学し、南画家として名をなし、天保15年には松前藩の御用絵師として迎えられた。

熊坂適山(1796-1864)
寛政8年伊達郡市柳村(現在の福島県保原町)生まれ。豪農の子。名は登、または昌。字は晃郷、のちに子述、元精、子蹟など。通称は昌三、昌三郎。雅号は初め波玉、のちに摘山、適山と称し、別号に千水などがある。熊坂一族は、儒学者の熊坂台州・磐谷親子や、蘭学者の熊坂蘭斎(適山の弟)を輩出した家で、台州は谷文晁とも親交があった。はじめ梁川移封後の蠣崎波響に師事して波玉と号した。文政4年の松前藩復領後は、浦上春琴や田能村竹田について南画を学び、号を適山と改めた。波響に師事していた10年余りは、写生画風の山水を描いていたが、のち南画家として名をなした。天保15年には松前藩の御用絵師として迎えられ、のちに勘定方役人、晩年には江戸屋敷詰めとなった。元治元年、70歳で死去した。

北海道(2)-画人伝・INDEX

文献:蠣崎波響とその時代松前藩の画人と近世絵画史




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