画人伝・石川 南画・文人画家 花鳥画

岡田静山ら加賀の近世南画家

岡田静山「花鳥図」真宗大谷派金沢別院蔵

岡田静山「花鳥図」真宗大谷派金沢別院蔵

加賀の近世南画家としては、江戸時代中期に加賀藩の計史・深山台州や医師の津田菜窠らが独自の南画を描き、江戸時代中期から後期にかけては、鶴来出身で今枝家の儒者・金子鶴村(1759-1840)や加賀藩士の寺島応養らが画をよく描いた。

江戸時代後期から末期にかけては、加賀藩の重臣で個性的な墨竹画を得意とした青山淇水(1779-1848)、絵や陶芸、俳句を嗜んだ小坂神社の宮司・高井二百(1780-1855)、家柄町人で墨竹を得意とした多々羅西皐(1782-1838)らが活躍した。

加賀藩士としては、墨梅図を得意とした岡田楊斎(1785-1864)、梅図や竹図を得意とし、その名声は遠近に及んだという榊原拙処(1791-1875)、天文や暦数を好み水墨画を描いた寺西芸園(1796-1858)、山水や花鳥画を得意とした岡田静山(1806-1871)らが藩政のかたわら画をよくした。

加賀藩士で大小将組頭をつとめた岡田静山は、早くから謙信流の兵学を修め、特に海防と軍備に心を注ぎ、西洋の銃砲陣式を研究するなど武技につとめた。そのかたわら南画をよくし、花鳥画、山水画を得意とした。子の常山(1830-不明)も、父に学んで明治初頭まで活動した。

金子鶴村(1759-1840)かねこ・かくそん
宝暦9年加賀国石川郡鶴来村(現在の石川郡鶴来町)生まれ。名は吉治、有斐、字は君仲、仲豹、通称は劉助。別号に絢斎がある。安永4年に父が没し、家を継いだ兄も翌年死去したため、同年18歳で家督を継いだ。その後、京都に上り皆川淇園について学問を修めた。帰郷後、寛政6年小松に郷校として集義堂が設立された際に教授となって子弟を教育した。また、文化元年から天保2年まで加賀藩の重臣今枝家の儒者として仕えた。画は東陵文亀に学び、山本梅逸とも交友した。天保11年、82歳で死去した。

青山淇水(1779-1848)あおやま・きすい
安永8年生まれ。加賀藩士。名は知次、通称は与三、将監。別号に碧鮮堂、清陰亭がある。定火消、御仏殿火消、奏者番、寺社奉行兼公事場奉行を経て、家老兼近習御用となった。文化期以後は、海外事情に関心を注いで学者を保護し、器械を購入した。文事を好み、専ら墨竹を描いた。嘉永元年、70歳で死去した。

高井二百(1780-1855)たかい・じはく
安永9年加賀国河北郡山ノ上村(現在の金沢市)生まれ。小坂神社社家・高井家11代周防守藤原朝臣済永で、長顕の二男。幼名は弥市郎。寛政11年兄の死去により跡職を相続した。翌年神祇管卜部朝臣良運より風折烏帽子狩衣着用の裁許状を受け、大和守藤原朝臣済永と名乗った。文政6年加越能三か国の社家筆頭に任ぜられ、越後守と改名した。絵や陶芸、俳句を嗜み、墨竹を得意とした。安政12年、76歳で死去した。

多々羅西皐(1782-1838)たたら・せいこう
天明2年生まれ。金沢の家柄町人。本吉屋と称し金沢の十間町に住んでいた。名は多々良宗右衛門、諱は弼。別号に夢鶴、摩呵散人がある。住居は四宜園と称した。文化5年はじめて町年寄に任ぜら、文政11年苗字を許された。南画をよくし、墨竹を得意とした。『凌雲館集』『西宜園詩稿』などの著書がある。天保9年、57歳で死去した。

岡田楊斎(1785-1864)おかだ・ようさい
天明5年生まれ。加賀藩士。通称は右八郎、喜陸。別号に成憲がある。はじめ新番歩組に登用され、儒学に長じていたので明倫堂読師となった。その後、訓蒙、助教加人、世子侍読を経て南土蔵奉行兼書物奉行となった。画は専ら墨梅を描いた。元治元年、80歳で死去した。

榊原拙処(1791-1875)さかきばら・せっしょう
寛政3年生まれ。加賀藩士。名は守典、通称は三郎、字は子常。別号に蘭処、三痴、夢松、一翁、逸翁、逸鴎、梅下書屋、蓮湖倣史などがある。上田氏の出で、加賀藩重臣今枝内記の家臣榊原氏の養子となった。学問を好み、漢詩を作り、南画に親しんで梅図や竹図を得意とし、その名声は遠近に及んだという。書も巧みだった。明治8年、85歳で死去した。

寺西芸園(1796-1858)てらにし・うんえん
寛政8年生まれ。加賀藩士。名は秀周、通称は要人、字は慎微。円水または芸園と号して水墨画を描いた。天文や暦数を好み、自邸を観星楼と名づけ、天保4年6月の朔日の日蝕を観測した。その後の経歴は不明。安政5年、63歳で死去した。

岡田静山(1806-1871)おかだ・せいざん
文化3年生まれ。加賀藩士。名は之式、通称は栄次郎、助右衛門。別号に松斎、托松翁がある。文化9年祖父牛右衛門之昌の家督を継ぎ、天保年中、大小将組頭に進んだ。兵学を修め、海防と軍備に意を注ぎ、西洋の銃砲陣式を研究するなど武技につとめ、そのかたわら南画をよくし、花鳥画や山水画を得意とした。明治4年、66歳で死去した。

岡田常山(1830-不明)おかだ・じょうだん
天保元年生まれ。岡田静山の子。名は重静。維新後、明治2年に金沢藩権大属となったが、明治11年病のため職を辞した。画は父静山に学んだ。明治15年の第1回内国絵画共進会に「花鳥」「山水」の2点を出品した。

石川(13)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史通史編2(近世)、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成




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