京都で中林竹洞に学んだ高橋杏村(1804-1868)は、のちに帰郷し、梁川星巌に漢詩を習い、西濃の漢詩人・神田柳渓と交わり、さらに昌平校の儒官・曾我耐軒が美濃に来た時に経学を学んだという。弘化のはじめに私塾「鉄鼎学舎」を開き、漢籍画法を指導した。
当時、画家としての知名度は高く、山水、花鳥と幅広い画技をふるった。梁川星巌のほか、村瀬秋水、村瀬太乙、山田訥斎とも交流があったと伝わっている。門人は近江、尾張、三河にまでおよび、最盛期にはその数は200人を越えたという。
青木篁村(1825-1901)あおき・こうそん
文政8年生まれ。高橋杏村に師事した。明治34年、77歳で死去した。
末松松溪(1825-1902)すえまつ・しょうけい
文政8年生まれ。揖斐郡池田町片山の人。名は瓢馬。高橋杏村に師事した。明治35年、78歳で死去した。
河合秋堂(1826-1898)かわい・しゅうどう
文政9年生まれ。名は照元。安八郡福束村の人。高橋杏村に師事した。明治31年、63歳で死去した。
和田東川(1834-1899)わだ・とうせん
天保5年生まれ。安八郡神戸町落合の人。名は平右衛門。高橋杏村に師事した。明治32年、66歳で死去した。
国枝杏蹊(1835-1891)くにえだ・きょうけい
天保6年揖斐郡本郷村生まれ。名は紀一。別号に桃蹊がある。高橋杏村に師事した。明治24年、57歳で死去した。
神保木石(1837-1903)じんぼ・ぼくせき
天保8年生まれ。名恭平。海津郡高須の出身で、名古屋下園町に住んだ。高木小平治の子。神保五郎蔵の養子。高橋杏村に師事し、のちに長崎で画を学んだ。明治36年、67歳で死去した。
北村石樵(1841-1913)きたむら・せきちょう
天保12年生まれ。名は由之助。別号に泉翁がある。元大垣藩士。高橋杏村に師事した。東西に遊歴し晩年は東京浅草に住んだ。明治42年東京美術倶楽部で石樵の雅会が開催された。大正2年、77歳で死去した。
安藤老山(1843-1911)あんどう・ろうざん
天保14年生まれ。大垣市東久瀬川町の人。名は一郎。別号に晴雷がある。明治7年岐阜県師範研修学校を卒業。高橋杏村に師事した。大垣藩三等教授、大垣高等女学校教官。明治44年、69歳で死去した。
永田秋田(1843-1906)ながた・しゅうでん
天保14年生まれ。名は又七。海津郡今尾の出身で、愛知県起町へ養子に出た。高橋杏村に師事した。明治39年、62歳で死去した。
山川雪鴻(1845-1924)やまかわ・せつこう
弘化2年生まれ。安八郡神戸町落合の人。名は昌平。高橋杏村に師事した。俳画をよく描いた。大正13年、80歳で死去した。
児玉石峯(1853-不明)こだま・せきほう
嘉永6年生まれ。大垣の人。名玄成、別号に杭がある。高橋杏村に南画山水を学び、名古屋南鍛治屋町に移転し、武光桂園に彩色の法を学んだ。牡丹を得意とした。白鴎社集会図(星巌、紅蘭、細香ら11名集会の絵)を描いた。
戸倉泉石(不明-1916)とくら・せんせき
養老郡広幡村大跡の人。丸毛姓を継いで丸毛兼忠となった。名は増吉郎。別号に楓谷がある。高橋杏村に師事した。大正5年死去。
正山松石(不明-1923)まさやま・しょうせき
海津郡今尾の人。名は智教。別号に杏石、松石がある。高橋杏村に師事した。大正12年、59歳で死去した。
高橋杭水(不明-1887)たかはし・こうすい
安八郡神戸町生まれ。高橋杏村の長男。名は鎌吉。別号に士農がある。父に師事した。明治20年死去。
森杏溪(不明-不明)もり・きょうけい
名は庄助。揖斐郡本郷村小寺の出身で、竹ケ鼻に転居した。高橋杏村に師事した。
馬淵瑞村(不明-不明)まぶち・ずいそん
本巣郡高屋の人。高橋杏村に師事した。
長村楓村(不明-不明)おさむら・ふうそん
岐阜市米屋町の人。高橋杏村に師事した。
馬場楓村(不明-不明)ばば・ふうそん
本巣郡生津村の人。高橋杏村に師事した。
岐阜(7)-画人伝・INDEX