村瀬藤城、秋水ら優秀な学者や南画家を輩出した村瀬一族だが、その中でもひときわ異彩を放っていたのが村瀬太乙である。太乙は、藤城、立斎、秋水の村瀬三兄弟の従兄弟の子にあたり、詩、書、画すべてに才能を示した。尾張藩に来た中国人儒者・金華水は、その表現力を詩書画の三絶と評し、自ら「太乙老人三絶」の印を刻して太乙に贈りその才能をたたえた。一方で『近世畸人伝』に掲載されるほどの奇人とされ、数々の逸話が残っている。
1992年に一宮市博物館で開催された「村瀬太乙の世界」の図録では、太乙の書画について「書では、山陽の影響から出発しながら晩年は淡墨によって軽妙・飄逸な筆運びにより独特な書風を作り出している。画では、一族に南画家・村瀬秋水がいてその影響は少なくないと思われるが、筆を極力減じた山水や歴史人物、さらに風俗・人物を描いたものが多く、独特な戯画調の人物画には、美濃出身の禅僧仙の作品を思い起こさせるものがある」と記し、山陽の薫陶を受けた漢詩については「難解な語句を避けた作法に特徴があり、儒教的な作品の一方、『蛍火』に代表されるおおらかな歌心や女体賛美の艶詩など、その奔放ともいえる表現は従来の漢詩の枠にとらわれない作風といえる」と評している。
また、同図録には太乙の奇人ぶりを示す逸話のひとつとして、藤城の推薦により犬山藩の教授となる際、太乙は「裃をつけずに君前に出てもよいこと、君前であろうとも喫煙を許されること、そして所かまわずオナラをしてもとがめないこと」という条件を提示したと記している。その逸話を裏付けるように、太乙には「放屁先生」と刻した落款があり、喫煙好きを示す大キセルが犬山市に残っている。
村瀬太乙(1803-1881)むらせ・たいいつ
享和3年美濃国武儀郡上有知村生まれ。名は黎・泰通、通称は泰一、字は太乙、別号に太乙散人がある。幼少期に曹洞宗善応寺の晦巌について学び、のちに一族であり頼山陽門の俊才とうたわれた村瀬藤城に経史詩文を学んだ。23歳の時に藤城の薦めで、京都に出て頼山陽の門に入った。山陽のもとでの7年間は、太乙の思想と文学に大きな影響を与えた。山陽の没後は名古屋に住み、天保8年長者町で私塾を開いて気ままな町儒者として名古屋の文人たちと交流を深めた。弘化元年、藤城の推薦で犬山藩校の教授となり、明治3年には犬山の敬道館に移り、翌年の廃校後は犬山に隠棲した。編著書に、中国詩のアンソロジー『幼学詩選』、菅茶山の作品を編纂した『菅茶山詩鈔』、自作の漢詩を集めた『太乙堂詩鈔』などがある。明治14年、79歳で死去した。
稲葉松雨(1847-1922)いなば・しょうう
弘化4年生まれ。名は現淵。揖斐郡本郷村光慶寺二六世住職。村瀬太乙に師事した。大正11年、76歳で死去した。
田中蛙骨(1882-1942)たなか・あこつ
明治15年生まれ。名は丈右衛門。別号に川柳がある。村瀬太乙と阪井久良岐に師事した。昭和17年死去。
岐阜(6)-画人伝・INDEX
文献:村瀬太乙の世界、岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿