画家略歴

南部(3)-ネット検索で出てこない画家

田口豊洲
明治40年十和田市に生まれる。京都の臨済宗大本科を修め、京都山本山妙心寺教務執事を経て、南宗寺十七世住職になる。そのかたわら八戸夜間中学講師なども務め、県立八戸高校長、青森県教育委員、八戸市文化財審議委員、八戸市社会教育委員などを歴任した。竹、霊芝などの水墨画を残している。昭和46年、64歳で死去した。

竹村悦人
文化11年三戸に生まれる。旧姓は池野。南部三戸藩の医者。叔父の陽庵の影響で幼少の頃から文名高く、藩士竹村平佐衛門にこわれ養子となり、竹村姓を名乗り藩の代官史生となる。詩や画もよくし、「書画を乞う物列をなし、又弟子百余人に達す」との記録がある。文久2年、48歳で死去した。

種市精一
明治21年岩手県福岡に生まれる。福岡中学を経て新潟医大に進み、のちに八戸市番町で医院を開業した。若い頃から独学で木彫をし、美術に造詣が深く、美術品コレクターとしても知られたが、60余歳にして木版画を始めたとされる。昭和31年日本板画院に出品、同33年には日本板画院の会員となった。棟方志功らが中心の『日本百景』に作品が掲載されている。昭和39年死去。

長崎春雨
明治末から大正の中頃まで八戸に滞在していた南画家。生没年不明。京都の重春塘の門下といわれ、絵行脚の途中で八戸に長逗留になったらしい。

奈須川紫狂
明治8年八戸に生まれる。本名は葆光。八戸町長などを務めた奈須川光宝の長男、洋画家・福田剛三郎の実兄。父に伴って上京し、橋本雅邦の画塾に入門、狩野芳崖にも師事したといわれる。兵役ののち帰郷し、八戸新聞社の役員や奥南新報記者などを務めた。昭和9年、61歳で死去した。

七尾対山
文化14年八戸に生まれる。初め清助、のちに清四郎と称した。七尾英鳳は孫。対岳に師事し、恵比須、大黒など慶事用の絵柄を多く描いた。明治30年、82歳で死去した。

袴田恒男
明治44年八戸鮫に生まれる。昭和の初めに画家を志して上京、太平洋美術学校に入学、同期に麻生三郎がいる。同校卒業後は第一美術に出品、すぐに会友に推挙され将来を嘱望されたが、酒におぼれるなどして不遇だったといわれ、僅かな発表の場はグループ五亥会などだけだった。昭和31年、46歳で死去した。

南部(3)-ネット検索で出てこない画家

文献:青森県南部書画人名典




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