白河藩絵師・星野文良(1798-1846)は、16歳の時に江戸詰めとなり、八丁堀の白河藩邸に住み、藩主・松平定信の命を受けて谷文晁の門に入った。享和3年には、近江石山寺に伝わる「石山寺縁起絵巻」の補完作業を行なっていた谷文晁に、欠巻部分の補作の資料を提供するため、岡本茲奘、蒲生羅漢らとともに模本制作を行なっている。また、南湖真景作成の命を受けるなど、真景図作成の御用にも関わっている。
文政5年には定信の嫡子である定永の側役となり、文政10年には定永に随伴して京都で寺社の古画などに触れながら、画技を磨いたと伝わっている。残っている作品は少ないが、真景図をはじめ、人物画、山水画、花鳥画、大和絵など、谷文晁の影響を受けた幅広い画域の作品を手掛けている。
星野文良(1798-1846)ほしの・ぶんりょう
天明元年白河城下生まれ。白河藩絵師。名は唯実、通称は善輔。別号に爽軒、甲子山人などがある。幼いころから白河藩絵師・久松(服部)南湖、巨野泉祐らに絵の手ほどきを受け、のちに白河藩主・松平定信の命によって谷文晁の門に入った。定信の子で信州松代城主・真田幸専の養子となった幸貫の御側御納戸日記(真田家文書)には、文政末年から天保年間にかけて文良が席画を仰せ付けられたり、絵の御用に関わったという記載がある。定信の桑名藩転封に従い桑名に移った。弘化3年、49歳で死去した。
福島(8)-画人伝・INDEX
文献:白河を駆け抜けた作家たち、定信と文晁