寛政の改革で知られる松平定信(1758-1829)は、八代将軍徳川吉宗の孫として江戸城内の田安邸に生まれ、17歳で白河藩松平家の養子となった。天明3年には白河藩の家督を継いだが、天明7年に幕府老中首座に推挙され、寛政の改革を行なったのち、寛政5年に老中及び将軍補佐役を辞任して白河藩主に復帰した。
定信が白河に入るまでの白河藩周辺の絵画状況は、資料に乏しく明確にはわかっていないが、定信が白河藩主になって以来、にわかに白河藩を取り巻く絵師たちの活動が活発になる。それは、定信が文化的な関心が高く、日本全国の古文化財を記録した『集古十種』や、古絵巻を模写して分類・集成した『古画類聚』などの編纂事業を推し進め、それに多くの絵師を登用、活用したからである。
定信の画事については、12、3歳の頃から狩野派の絵画を学び、のちに田安家の家臣・山本又三郎(源鸞卿)について沈南蘋の画法を学んだと伝わっている。現存する定信の絵画作品には当時流行していた南蘋画の影響がみられ、源鸞卿に学んだことがうかがえる。
しかし、後年は絵筆を絶ち、かつて諸士に与えた絵画を和歌と交換するとともに、それを自ら火中に投じて燃やしたと伝わっている。その理由を、著書のなかで述べられている絵画観から推測すると、「対象の正確な形状を伝える写実性の重視と形骸化した趣味的鑑賞態度の否定」ではなかったかと考えられている。しかし、残っている作品からこうした絵画観を明確に感じとることはできない。
松平定信(1758-1829)まつだいら・さだのぶ
宝暦8年江戸城内田安邸生まれ。御三卿・徳川(田安)宗武の二男。八代将軍徳川吉宗の孫。幼名は賢丸、字を貞郷。旭峯、風月、楽翁などの号がある。学問の師は、田安家の番頭で朱子学や書に造詣の深かった大塚孝綽、儒学者の黒田右仲、側近の水野為長らで、詩歌も11歳頃からはじめたといわれる。安永3年、17歳で白河藩松平家の養子となり、安永4年田安家を出て八丁堀の白河藩邸に移った。天明3年白河藩の家督を継ぎ、翌年には藩主として白河に入った。天明7年幕府老中首座に就任し、将軍家斉を補佐し寛政の改革を断行した。寛政5年には老中職を辞任し、翌年白河に帰藩を許されて以後白河藩政に専念するかわわら多くの学者や絵師を育成・活用しながら「集古十種」「古画類聚」などの編纂事業を進め、谷文晁や亜欧堂田善など多くの画人を白河に結びつけた。また、自ら絵筆をとり、将軍家治に「柳鷺図」「関羽図」を、光格天皇に「桃鶴図」を献上したという。文政12年、72歳で死去した。
福島(4)-画人伝・INDEX
文献:ふくしま近世の画人たち、白河を駆け抜けた作家たち、白定信と文晁 松平定信と周辺の画人たち、白河の歴史、須賀川・石川・岩瀬の歴史