江戸南画の大成者として知られる谷文晁は、第三代白河藩主・松平定信の生家である徳川御三卿・田安家の家臣だったが、寛政4年、31歳の時に幕府老中在任中の定信付きの家臣となった。以後、定信との親交は公私にわたって長く続くこととなり、翌年には定信の江戸湾岸巡視に同行し、各地の風景を写生し「公余探勝図巻」(重文)を制作した。
この時の定信の巡視の目的は、当時盛んに日本近海に出没していた外国船に対する海岸防備の実情を自ら視察し、その対策をたてるためだった。そのため正確な距離や奥行きを表現した風景画を必要としていた。西洋画の実用性を高く評価していた定信は、西洋画法を学んでいた文晁に、そうした正確な風景画を求めていたと思われる。
幼いころから狩野派を学んだ谷文晁は、その後、南蘋派、土佐派、中国絵画などさまざまな諸派の画法を学び、西洋画法の研究も行なっていた。「公余探勝図巻」に残された風景画は、正確な遠近表現や立体感を示す彩色法が用いられており、この時すでに、定信の期待に応えるだけの西洋画の知識を文晁は持っていたと思われる。
また、寛政8年には定信の命を受け、全国の古社寺や旧家に伝わる古文化財を調査し、全85巻の『集古十種』の刊行に尽力した。資料模写にあたっては、白河藩周辺の画人たちの指導・育成につとめた。
谷文晁(1763-1841)たに・ぶんちょう
宝暦3年江戸生まれ。父は田安家の家臣・谷文十郎。通称は文五郎、文伍ともいった。初号は文朝。別号に写山楼、画学斎、無二斎、一如居士、蝶老、文阿弥などがある。幼いころから絵を好み、10歳で狩野派の加藤文麗に入門、17、8歳の頃には南蘋派の渡辺玄対に師事した。また、大坂の木村蒹葭堂のところで釧雲泉に南画を学び、桜井雪館、英一蝶らと交流、そのほか土佐派の画なども吸収し、さらに長崎で中国人画家・張秋谷に蘭竹花鳥を習うなど、さまざまな流派を習ってその特徴を自分のものにする努力をした。司馬江漢の洋画法までひと通り研究し、江戸に南画を普及させた。門人に渡辺崋山、立原杏所、高久靄崖、鈴木芙蓉、鈴木鵞湖、金子金陵、鏑木雲潭、佐竹永海、田崎草雲、大西椿年らがいる。天保11年、78歳で死去した。
福島(5)-画人伝・INDEX
文献:白河の歴史、白河を駆け抜けた作家たち、写山楼谷文晁、生誕250周年 谷文晁、谷文晁とその一門