桃山時代から江戸初期にかけて各地で築城が盛んになり、城内を勇壮に飾り立てる画才を持った絵師の存在が重要になった。伊予の地にはまだそのような絵師が育っておらず、武将たちは京や伏見・大坂の城にかかわった絵師たちに目を向けた。伊予松山藩に最初に迎えられた絵師は、京狩野に学んだとされる松本山雪(不明-1676)で、馬の名手として知られた。寛永12年、松平定行に伴い伊予の地に入った山雪は、伊予松山藩の御用絵師をつとめ、それを養子の山月が引き継いだが、次に続かず、山雪の画系は二代で途絶えている。
松本山雪(不明-1676)まつもと・さんせつ
本名は恒則、俗名は山雪。はじめ庄三郎といった。別号に岨巓、心易がある。松平定行に従って松山に入り、御用絵師をつとめた。松山石井郷松本屋敷に住んでいた。画題は山水、人物、走獣、仏画など多彩だが、特に馬の名手として知られた。今治出身説、狩野山雪師事説、藤堂高虎伺候説などがあるが、山雪に関する史料は極めて少なく定かではない。山雪の子孫松本家に伝わる「松本家系図」によると、勅命により上京し、御所で馬の画を描き、その妙なるを絶賛されて「肩の印」御免許の綸旨を下賜され、以後「御免筆」印を捺すとある。また出生地を「近江」としている。生年は不詳だが、同家系図には後世の別筆で「行年九十六歳」とあり、これを信じれば生年は天正9年(1581)となる。延宝4年死去した。
松本山月(1650-1730)まつもと・さんげつ
慶安3年生まれ。名は貞則、初め佐次之丞といった。別号に半輪斉がある。松山藩の絵御用を務めた松本山雪の養子となって画技を磨き、山雪の跡を継いだ。延宝4年に山雪は世を去るが、山月は山雪から学んだ画技を発揮し、貞享元年に松山城三の丸藩主宅に「松竹梅図」を描くなどし、その功績により同3年には三人扶持加増あり、八人扶持扱いとなった。近隣の社寺とも大いにかかわり、宝永2年、松山波賀部神社に絵馬を奉納、同7年に南土居万福寺に「大涅槃図」を描き、正徳2年には同寺に「釈迦三尊画」を納めた。画風は山雪の様式や構図を忠実に継承したもので凡庸な作家のイメージがあったが、近年になって山月筆のスケールの大きな作品が続々と確認され、新たな山月像が浮上しはじめている。享保15年、81歳で死去した。
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