画人伝・石川 狩野派 動物画

京都の狩野派に学び加賀藩に仕えた佐々木泉景

佐々木泉景「鹿群図」加賀市実性院蔵

佐々木泉景「鹿群図」加賀市実性院蔵

地元金沢の狩野派として、梅田家とともに加賀藩の御用を受けたのが、江戸時代後期から末期にかけて活躍した佐々木泉景(1773-1848)とその一門である。大聖寺(現在の加賀市大聖寺)出身の泉景は、京都に出て狩野派の鶴沢探索や探泉に師事し、30歳の時に法橋位を得て帰郷、加賀藩の御抱絵師となり、法眼位に進み、晩年には藩の御医者格となった。

長男の佐々木泉玄(1804-1879)も京都で鶴沢探泉に学び、文政5年の竹沢御殿造営の際には父泉景とともに参加し、以来藩の御用を多くつとめ、その後、法橋に叙された。二男の佐々木泉龍(1808-1884)も京都で鶴沢探泉に学び、さらに江戸の狩野探信にも師事した。竹沢御殿造営の際には兄の泉玄とともに父を手伝い、その後、法橋に叙された。

泉玄の長男の佐々木泉山(1834-1886)も、京都で鶴沢探龍に学び、嘉永5年に前田斉広夫人真龍院の屏風を制作し、以後多くの藩の御用を受けている。また、早川泉流(不明-不明)をはじめとした泉景の門人たちも、竹沢御殿造営や金沢城二ノ丸御殿の障壁画制作の際には師とともに参加している。

佐々木泉景(1773-1848)ささき・せんけい
安永2年加賀国江沼郡大聖寺町(現在の加賀市大聖寺町)生まれ。加賀藩御抱絵師。角鹿治右衛門の長男。幼名は熊次郎、名は守継。別号に彩雲、為絢居子がある。大聖寺に来ていた京都の狩野派の石田幽汀・友汀父子に学び、さらに京都に出て鶴沢探索・探泉の門に入った。享和2年法橋に叙され、これを機に角鹿姓から本来の佐々木姓に改姓し、帰郷した。文化4年加賀藩の依頼で屏風、衝立などを制作し、文化6年には金沢城二ノ丸御殿の障壁画制作に参加した。その後藩の御用が多くなったため文化8年に大聖寺町から金沢に転居した。天保13年法眼位となり、弘化4年には御医者格となったが、翌年の嘉永元年、76歳で死去した。

佐々木泉玄(1804-1879)ささき・せんげん
文化2年金沢生まれ。加賀藩御抱絵師。佐々木泉景の長男。幼名は愛之輔、のちに宮内。名は守貞、のちに守公。別号に春鳴、一白居士がある。京都で鶴沢探泉に師事した。文政5年、18歳の時に竹沢御殿造営の御用を父とともにつとめ、以後加賀藩の御用を多くつとめた。天保5年法橋に叙された。嘉永元年、44歳の時に父が没したため跡目を相続した。嘉永5年法眼位を得た。明治3年に隠居。明治12年、75歳で死去した。

佐々木泉龍(1808-1884)ささき・せんりゅう
文化5年金沢生まれ。加賀藩御抱絵師。佐々木泉景の二男。名は尚継、のちに守起。別号に白嶽山人、越溪、鶴沙、姑射山人、散郎がある。文政5年の竹沢御殿造営の御用にあたり兄とともに父を手伝ったが、画技がまだ未熟だったため文政7年京都の鶴沢探泉に師事し、さらに江戸に出て狩野探信の門に入った。嘉永5年法橋に叙された。明治14年第2回内国勧業博覧会で妙技賞牌3等を受け、明治15年の第1回内国絵画共進会にも出品した。明治17年、77歳で死去した。

佐々木泉山(1834-1886)ささき・せんざん
天保5年金沢生まれ。佐々木泉玄の長男。名は守直、守。通称は四馬、駟馬之輔。嘉永5年藩から屏風を御用を受け、以来多くの藩御用をつとめた。また同年から京都の鶴沢探龍に師事した。明治15年と明治17年の第1回・2回内国絵画共進会に出品。明治19年、53歳で死去した。

佐々木泉石(1852-不明)ささき・せんせき
嘉永元年金沢生まれ。佐々木泉龍の長男。名は守義、通称は他見弥。別号に白巓がある。子どものころから父に画を学び、藩の御先手大筒司令役をつとめた。明治15年と明治17年の第1回・2回内国絵画共進会に出品した。

早川泉流(不明-不明)はやかわ・せんりゅう
名は信之。金沢に居住。佐々木泉景に師事した。文化6年の金沢城二ノ丸御殿の障壁画制作に師とともに参加した。

中浜鶴汀(1793-1870)なかはま・かくてい
寛政5年生まれ。名は静、字は永年。金沢に居住し、家は代々医者を業とする家系。医学を学ぶため上京したが、帰郷後は医師をせずに画業に専念した。佐々木泉景に師事し、文政5年の竹沢御殿造営の御用には師とともに参加し、竹之間などに御用をつとめた。明治3年、78歳で死去した。

松波景栄(1794-不明)まつなみ・けいえい
寛政6年生まれ。詳しい経歴は不明だが佐々木泉景の弟子と伝わっている。金沢の大野湊神社や粟崎八幡神社に絵馬が奉納されている。文久3年以後に死去したとみられる。

田辺素山(1801-1842)たなべ・そざん
享和元年能登国羽咋郡上田町(現在の羽咋郡押水町上田)生まれ。字は充徳、通称は平四郎。金沢に出て佐々木泉景に学び、その後法橋位に叙された。天保13年、42歳で死去した。

石川(07)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史通史編2(近世)、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・石川, 狩野派, 動物画

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5