須藤尚義(1902-1956)は、明治35年田舎館村川部に生まれた。父は早くから尚義を画家にする考えがあり、尚義は小学校4年の時に東京の学校に転校した。東京での最初の師は村上委山で、ここには3年いて、大正9年に松林桂月の門に移った。昭和3年には郷里の先輩である蔦谷龍岬の画塾「鐸鈴社」に入り、第11回と第12回の帝展に入選した。画風も平家物語を主テーマにしていた師・龍岬の影響を受け、大和絵風のものだった。
尚義は、龍岬が結成した東奥美術社にも加わり、青森県内でも作品を発表していたが、昭和8年、龍岬が48歳で急死してしまう。最も尊敬していた師を失った尚義は、その後、小室翠雲、川合玉堂、児玉希望、川端龍子、中村岳陵と次々と師匠を変え、そのつど師の作風を学び取り、自分のものとした。純粋に最良の師を追求してやまなかった尚義だが、高名な師を渡り歩くその姿は、周囲からは出世ねらいの下卑た行為と見られがちだった。
晩年は、平福百穂を最も尊敬し、竜飛崎のスケッチを描きためており、これを持って行き、新興美術院に入る考えだったという。
須藤尚義(1902-1956)すとう・なおよし
明治35年南津軽郡田舎館村生まれ。小学校4年の時に画家修業のため東京の学校に転校。大正5年村上委山に師事。大正9年松林桂月に師事。昭和3年蔦谷龍岬の画塾「鐸鈴社」に入る。昭和5年第11回帝展に初入選、翌年の第12回帝展にも入選した。昭和8年師の龍岬が没したため、昭和10年小室翠雲に師事、同年日本南画院に出品。昭和11年日本画会に出品。昭和12年川合玉堂に師事、児玉塾第1回展で塾賞を受賞。昭和13年児玉希望に師事、児玉塾第2回展で長流賞を受賞。昭和14年川端龍子に師事、青龍社展に出品。昭和16年に青森県の日本画の美術団体「青丘社」を設立した。その後も青龍社展に出品して社子に推挙されるが、昭和19年中村岳陵に師事、日本美術院展に出品した。昭和31年、54歳で死去した。
青森(30)-画人伝・INDEX
文献:田舎館村誌 中巻、青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、東奥美術展の画家たち、津軽の美術史、青森県近代日本画のあゆみ展