新井家は、初代の新井寒竹常償が江戸定府の絵師として召し抱えられて以来、幕末まで七代にわたって、江戸において絵師をつとめた。寒竹は、狩野常信の四天王のひとりと称された高弟で、高い技術を持っていたとされるが、その経歴は定かではなく、いくつかの逸話が残されている。
『奥富士物語』によると、寒竹は、弘前藩江戸屋敷の門前に捨てられていたのを拾われ、4、5歳のころから好んで絵を描き、その才能が認められ、鵜川常雲に連れられて木挽町狩野家・狩野常信に入門したとされる。寒竹の上達は目覚しく、特に雲竜を得意とし、その雲の隈取は絶品だったという。当時は装飾画が全盛で、俵屋宗達や尾形光琳の絵が評判だったが、寒竹はそれに反発し、同画題の「風神雷神図」を描こうと、雨乞いで知られる江戸向島の三回稲荷神社に立てこもって想を練っているときに、落雷に遭い非業の死を遂げたとされているが、真偽のほどは定かではない。
新井寒竹常償(不明-1731)あらい・かんちく・つねさと
新井家初代。狩野常信の門人。『古画備考』によると足利の出身。『江戸御家中明細書』によれば、貞享3年に弘前藩に絵師として召し抱えられ、享保12年には表医者並に遇された。享保16年死去した。
新井朴也常寛(不明-1752)あらい・ぼくや・つねひろ
新井家二代。脇坂豊之助の家臣・大家惣左衛門の子。狩野常信の門人。享保8年寒竹常償の養子となり、享保17年に跡を継いだ。作品は、藩命によって描かれた「慈眼大師御縁起」「元三大師御縁起」「高照神社絵馬」などが残っている。宝暦2年死去した。
新井寒雪典償(不明-不明)あらい・かんせつ・みちさと
新井家三代。新井朴也常寛の二男。木挽町狩野家六代・狩野栄川院典信の門人。兄の寒清が絵師として家業を継ぐのに未熟だったため、宝暦2年に跡を継いだ。作品は、津軽地方には絵馬と2、3の軸物が残っているのみである。寛政7年長男に家督を譲り隠居した。
新井養雪惟償(1765-1810)あらい・ゆうせつ・これさと
新井家四代。明和2年生まれ。新井寒雪典償の長男。木挽町狩野家七代・狩野養川院惟信に学んだ。寛政7年三代が隠居したため跡を継いだ。残された作品は少ない。文化7年、49歳で死去した。
新井晴峰養償(不明-1838)あらい・せいほう・おささと
新井家五代。毛利甲斐守の家臣・笹山養意の二男。初号は玉寒。木挽町狩野家九代・狩野晴川院養信に学んだ。文化2年新井家の養子となり跡を継いだ。家業精励が認められ、文化12年御近習医者格になった。天保9年死去した。
新井晴斎(不明-1846)あらい・せいさい
新井家六代。新井晴峰養償の長男。天保10年跡を継いだが、弘化3年に病死したため制作期間が短く、稽古にはげむ身だったようで作品はほとんどない。
新井勝峰(1829-不明)あらい・しょうほう
新井家七代。文政11年生まれ。晴斎の弟で末期に養子になり、弘化3年七代を継いだ。木挽町狩野家十代の狩野勝川院雅信に学び、同門に狩野芳崖、橋本雅邦らがいた。安政4年御茶道格、元治元年御近習詰格を仰せ付けられた。
青森(5)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史