UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・青森 狩野派 動物画

津軽に狩野派の画風を初めてもたらした鵜川常雲

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鵜川常雲「唐獅子図屏風」弘前市立博物館蔵

津軽地方に本格的な絵画がもたらされたのは、江戸時代の中期、弘前藩四代藩主・津軽信政が産業文化振興策のひとつとして、多くの文化人や技能者たちとともに、有能な絵師を弘前藩に招いてからのこととされる。信政は、木挽町狩野家の狩野常信に合力として三十人扶持を与え、また、鍛冶橋狩野家の狩野探幽とも親しく交友していた。とりわけ狩野常信とのつながりは深く、津軽の近世美術は木挽町狩野家との交流のなかで発展していく。

弘前藩の初期お抱え絵師として重要な役割を果たしたのは、狩野派を学び、絵師となって京都に住んでいた鵜川常雲だった。常雲は、狩野派の絵師としてすでに名高く、寛文2年に弘前藩江戸定府の絵師として信政に召し抱えられた時には、すでに法橋の地位にあったといわれる。歴代の藩主である為信、信枚、信義の三代の肖像を描き、また、江戸から弘前に下り城内の襖絵を描いたとも伝わっており、津軽地方に初めて狩野派の画風をもたらした絵師とされる。

また、常雲の最も重要な業績は、弘前藩と狩野常信との間の仲介だったといえる。常雲の取り持ちにより、常雲の次の弘前藩のお抱え絵師は、狩野常信の門人のなかから数人選ばれ、それによって弘前藩の木挽町狩野家の門弟によるお抱え絵師体制が確立した。上方と違い前代の文化的土壌を受け継ぐことのなかった津軽地方では、江戸狩野の絵画制度を取り入れることが最も効果的であったため、幕府四奥絵師のうちもっとも栄えたとされる木挽町狩野家の様式が、そのまま弘前藩の様式となった。

鵜川常雲(1620-1703)うかわ・じょううん
元和6年生まれ。本名は真木益弘。武家の出身で、常雲の三代前は甲斐国の家老だったが、関ケ原の合戦で主家が陥没して浪人になったといわれている。京都の城脇平安西門跡に住み、狩野派の絵師としてすでに名高く、法橋の地位にあったといわれている。寛文2年、弘前藩四代藩主・津軽信政に江戸定府の絵師として召し抱えられた。作品は、屏風や軸物など10点余り残されているが、狩野派の画風を伝えるものと、琳派を思わすような金地の装飾的なものとがある。詳しい画歴は不明で、書画家人名辞典などにも名前が出てこない。子の玄賀盛民は弘前藩に仕えて奥医師となったため、絵師の家系は常雲一代で終わった。元禄15年、83歳で死去した。

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県近代日本画のあゆみ展、津軽の美術史

弘前城築城四百年―城・町・人の歴史万華鏡
清文堂出版







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