弘前藩のお抱え絵師・今村家の初代・今村朴元常慶(不明-1729)は、少年期に京都から江戸に出て、狩野常信の門に入り絵を学んでいたところを、四代信政に召し抱えられた。以来幕末まで、六代にわたって代々絵師をつとめたが、二代・今村正元古慶のときに、津軽に下って国元の絵師となった。
「弘前八幡宮祭礼図」(掲載作品)は、ほぼ隔年で行なわれていた祭礼の際に、各町内から出された町印や山車の練り歩く行列と神輿の渡御の様子を全5巻100メートルに描いたもので、鮮やかな色彩が残っている。作者を示す署名はないが、四代・今村養淳惟慶(不明-不明)の作品と伝えられている。
今村朴元常慶(不明-1729)いまむら・ぼくげん・つねよし
今村家初代。狩野常信の門人。名は五郎兵衛。今村家の先祖は源九衛門といい、浪人だった。父は稲垣摂津守に仕えた京都の画人で、常慶も父とともに同家に仕えていたが、天和元年弘前藩の江戸定府の絵師として召し抱えれた。画事としては、天和2年に金屏風一双を、貞享4年に絵画制作を命じられた記録があり、享保10年に報恩寺に奉納された。また、元禄4年に、信政の命により長勝寺、百沢寺、江戸藩邸に納めるための藩祖為信、二代信枚、三代信義の肖像画を描いている。享保14年死去した。
今村正元古慶(不明-1777)いまむら・しょうげん・ひさよし
今村家二代。狩野栄川古信から一字拝領しているが、古信は早世したため狩野受川玄信に学んだと思われる。弘前藩士・野呂次五左衛門の三男。享保14年常慶が没したため今村家を継いだが、幼少だったためか禄は常慶の半分だった。狩野家からの名取の免状に相当する字号印可を受けていなかったためと思われ、江戸に上り木挽町狩野家に学んだ。入門から14年を経た寛保3年に、禄は常慶と同等になり、その翌年江戸定府から国元の絵師にかわった。安永6年死去した。
今村栄里典慶(不明-1783)いまむら・えいり・みちよし
今村家三代。狩野栄川院典信の門人。弘前藩士・工藤万左衛門の二男。延享元年今村家の養子となり、宝暦6年跡を継いだ。天明3年死去した。
今村養淳惟慶(不明-不明)いまむら・ようじゅん・これよし
今村家四代。狩野養川院惟信の門人。今村栄里典慶の二男。天明3年に典慶とその子の乙次郎が相次いで没したため、今村家を継いだ。門人に今井玉慶らがいる。文政6年に隠居した。
今村溪寿栄慶(不明-1863)いまむら・けいじゅ・ながよし
今村家五代。狩野晴川院養信の門人。今村養淳惟慶の長男。名は竜助。文政6年父の隠居にともない今村家を継いだ。藩のお抱え絵師としては現存作品も多く、津軽で多くの門人を育て、明治画壇にも影響を与えている。文久3年死去した。その跡を六代溪仙が継いだ。
青森(3)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史