画人伝・福岡

筑前福岡藩御用絵師となった狩野宗家中橋家の狩野昌運

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狩野宗家中橋家で組織の確認と整備を図り、宗家の大番頭と称されていた狩野昌運(1637-1702)は、筑前福岡藩の第4代藩主・黒田綱政に招かれ、晩年の10年余りを福岡藩御用絵師として過ごした。絵師のなかでも最も高位に格付けされていたと思われ、担当した絵事は、藩主の御前での席画、寺社への奉納画が中心で、城内座敷などにも描いたとされる。また、古画の鑑定や子弟の教育にも力を注ぎ、古画の鑑定については昌運及び子の一信(1680-1756)が独占していたとされる。昌運没後は子の一信が跡を継いだが、のちに画業を廃して福岡藩士となった。

狩野昌運(1637-1702)
寛永14年下野国宇都宮生まれ。岩本可武の三男。「和田上坂系図」によれば祖先は足利氏に仕えていた維政で、その孫(昌運の祖父)可信の代に宇都宮に移り岩本姓を名乗ったとされる。幼名は権四郎、名は季信、通称は市右衛門。別号に釣深斎がある。江戸に住み、14歳の時に中橋狩野家の狩野安信に学び、21歳の時にほぼ修業が終わり、安信から絵事を任され、師の晩年は代筆を頼まれることも多かったという。また、安信が著した狩野派の本格的画論『画道要訣』に関しても口述筆記を任されている。一方で京都の狩野了昌と親しく、のちに養子となって狩野の姓を継ぎ、江戸と京都で活動した。この頃から昌運季信と名乗ったと思われる。時期は定かではないが、のちに法橋に叙された。貞享2年の安信の死去に際して、遺言状に孫の永叔が幼年のため昌運に家督を譲るとあったが、これを辞退し、永叔の貢献人として中橋家を盛り立てる立場にとどまった。その際、弟子に狩野姓を許可する権限を中橋家が占有できるよう老中・阿部豊後守に働きかけ、他家の弟子がその免許を得るにはいったん永叔に入門しなくてはならなくした。元禄3年頃から黒田綱政に招かれ筑前福岡藩の御用絵師となった。著書に『昌運筆記』がある。元禄15年、66歳で死去した。

岩本一信(1680-1756)
延宝8年江戸生まれ。狩野昌運の子。名は久米之助、のちに岩本條之助と改めた。別号に珍止堂、松雲斉、白雉堂などがある。母は遠州掛川の城主・北條出羽守氏重の娘。母の縁で筑前福岡の綱政の愛顧を受け、母とともに福岡に移った。父の昌運没後は跡を継いだが、のちに画業を廃して福岡藩士となった。博多崇福寺に三十三身の観音像を、筑前松源院に五千人の人物からなる関ヶ原の合戦図を描いた。宝暦6年、77歳で死去した。

黒田綱政(1659-1711)
万治2年生まれ。福岡藩の第4代藩主。黒田家は狩野派との結びつきが強く、綱政は自ら絵筆をとった藩主として名高い。画は狩野安信に学び、安信没後は狩野昌運に学んだ。さらに昌運を筑前に呼び、藩の御用絵師として召し抱えた。正徳元年、53歳で死去した。

文献:特別展 御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム、狩野派と福岡展、筑前名家人物志福岡県日本画 古今画人名鑑

別冊太陽131 狩野派決定版 (別冊太陽―日本のこころ)
平凡社







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