秋田に最もはやく南蘋派の画法を伝えたのは、横手の佐々木原善(不明-不明)とされる。原善は横手城代の戸村義敬・義通(後草園)親子をパトロンとし、安永年間に江戸に出て松林山人について学び、さらに長崎に行き南蘋派を学んだとされる。長崎からの帰郷後は、戸村後草園に画法を伝えた。原善の生涯や画業については不明な点が多いが、再び江戸に出る途中、鴻巣で客死したと伝えられている。
戸村後草園(1768-1854)は、横手城代・戸村義敬の子として生まれ、享和元年父の隠居により34歳で横手城代となった。茶道や詩歌、書画に通じ、書は沢田東江に学んだ。画ははじめ狩野派を学んだが、父の代に佐々木原善を江戸や長崎に遣わして南蘋派を学ばせ、その帰郷後指導を受けて花鳥画に優れた作品を残した。
戸村家と角館の佐竹北家とは親しい交流があり、佐竹義躬が戸村義敬に小田野直武の絵を贈ったことが知られている。
佐々木原善(不明-不明)ささき・はらぜん
横手の松原生まれ。名は善蔵、号は原善、松峯山人、分水、楚寶などがある。生家は農家だったが、横手城代・戸村義敬・義通親子の支援で、安永末頃江戸に出て南蘋派の画家・松林山人に学んだ。その後寛政6年頃に長崎に遊学し、帰郷して後草園に南蘋派の画法を伝えた。40歳の頃、再び上京する途中の鴻巣で没したと伝わっている。
戸村後草園(1768-1854)とむら・ごそうえん
明和5年生まれ。横手城代。戸村義敬の子。名は義通、通称は十太夫、字は子達。別号に東陵、聚遠亭、芳風亭、枕霞楼などがある。享和元年父の隠居により横手城代になった。
画ははじめお抱え絵師の狩野秀東に狩野派を学んだが、のちに長崎から帰郷した佐々木原善に南蘋派を学んだ。文政11年の隠居後は、ますます書画に力を注いだ。嘉永7年、87歳で死去した。
秋田(11)-画人伝・INDEX
文献:秋田の絵描きそろいぶみ、秋田市立千秋美術館所蔵作品選、横手・平鹿の美術 十五人集、小田野直武と秋田蘭画、秋田書画人伝