日光の神官の子として生まれた小杉放菴(1881-1964)は、15歳の時に中学校を中退し、日光に住んでいた初期洋画家の五百城文哉の内弟子となった。師の文哉は水戸出身で、江戸で高橋由一に学び、晩年は日光に移り住んでいた。漢詩に造詣が深く、高山植物に親しみ、隠士のような生活を続けながら作品を制作していた。放菴がその画業において一貫して脱俗の精神を持ち続けていたのは、この師である文哉の影響があったと思われる。
16歳の時に師に無断で絵画修行のため上京した放菴だったが、健康を損ねて半年で日光に帰り、再び文哉の門に戻った。18歳の時に師の許しを得て再び上京、小山正太郎の不同舎に入門した。同期には青木繁、荻原守衛らがいた。東京では田端に住み、新聞や雑誌に漫画を寄稿したり、教科書の挿絵を描いて収入を得ていた。この頃から「未醒」の号を用いるようになった。
21歳で洋画の美術団体・太平洋洋画会の会員となり、翌年小山正太郎の推薦で近事画報社に入社した。この頃小川芋銭と知り合い、以来最も親しい友人として付き合い、芋銭未醒漫画展も開催している。24歳の時に日露戦争の従軍画家として戦地に赴き、戦場の挿画を『近事画報』に発表した。この頃から挿絵画家としての名声が高まり、太平洋画会では褒状を受け、文展でも受賞を重ね、第5回展では最高賞を受賞した。
大正元年、31歳の時に日本画、東洋画、西洋画の区別なく、師弟の関係も越えた自由な研究の場として「絵画自由研究所」の設立構想を横山大観とともに発表、翌年には研究所の資料収集もかねてヨーロッパを遊歴し、パリで池大雅の画帖「十便帖」の複製に出合ったことから、日本画に傾倒していくことになる。
翌年の帰国後は、大観が文展の審査員から外されたことが契機となって「絵画自由研究所」の構想を取り込んだかたちで日本美術院が再興され、放菴は同人として参加した。以後、油彩画だけでなく、日本画を多く描くようになった。
大正9年、39歳の時に日本美術院を脱退、大正11年に梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政らと春陽会を結成し、以後春陽会展を主な発表の場とした。この頃から「放庵」と改号し、昭和8年頃からは「放菴」を使うようになった。戦後は世塵をさけて雪深い新潟県の妙高高原に住み、庭の巨石を愛し野菜を作るという生活を送りながら作品制作を続け、82歳でこの地において没した。
小杉放菴(1881-1964)こすぎ・ほうあん
明治14年日光市生まれ。日光山内の二荒山神社の神官で国学者の小杉富三郎の子。本名は国太郎、または鹿郎。初号は未醒。明治29年栃木県立宇都宮中学校を1年で中退して日光に隠居していた五百城文哉の内弟子になった。翌年師に無断で絵画修行のため上京するが半年で戻った。明治32年再上京し小山正太郎の不同舎に入門。明治35年太平洋画会会員となった。明治41年第2回文展に初入選。第5回文展では最高賞である二等賞を受けた。大正3年横山大観らとともに日本美術館を再興、洋画部を主宰するが大正9年に脱退。大正11年春陽会の創立に参加。翌12年頃から号を放庵に改号した。昭10年松田改組により帝国美術院会員となった。さらに近衛内閣、安井改組によって帝国芸術院会員となるが、昭和34年辞退。昭和39年、別荘のあった妙高高原赤倉温泉において82歳で死去した。
参考記事:UAG美人画研究室(小杉未醒)
栃木(20)-画人伝・INDEX
文献:仙境に遊ぶ脱俗の画家、北関東の文人画、北関東の近代美術、栃木県の美術 1972、栃木県歴史人物事典