名取春仙(1886-1960)は、山梨県中巨摩郡明穂村(現在の南アルプス市)に生まれたが、生後間もなく父の事業の失敗により一家で東京に移り住んだ。幼いころから絵画に親しみ、11歳頃から日本橋数奇屋町の綾岡有真に日本画の基礎を学び、14歳の時には久保田米僊の司馬画塾に入門し、日本画、漢籍、美術史を学び、米僊失明後は子の金僊に師事した。
明治37年、18歳の時に東京美術学校日本画科選科に入学したが、1年半ほどで中退し挿絵の仕事を始めた。在学中は、平福百穂に私淑し、同時に福井江亭に洋画も学んだ。中退後は、平福百穂らと共に実用図案社で働いたのち、明治40年、21歳で東京朝日新聞社の嘱託となり、同年同じく嘱託となった夏目漱石の『虞美人草』をはじめ、新聞小説の挿絵を多く手がけ、名声を得た。
また、演劇界との結びつきも深く、多くの役者絵を描いた。大正4年には版元・渡辺庄三郎が展開していた「大正新版画運動」に参加し、大首の役者絵版画を制作した。春仙の描く役者絵は、舞台姿が美しいと人気を博し、昭和の役者絵に新時代を築いた。
一方で、日本画制作も精力的に進め、20歳の時に日本美術院展に入選、のちに院友に推挙された。平福百穂、結城素明が結成した无声会に参加し、平福百穂、小川芋銭らと珊瑚会を結成して活動した。しかし、大正9年、春仙が描いた横山大観作品の模写を、画商が原画の作者名を入れて売却するという偽作事件が起こり、嫌疑をかけられた春仙は日本美術院を脱退し、その後は日本画制作から遠ざかった。
名取春仙(1886-1960)なとり・しゅんせん
明治19年山梨県中巨摩郡明穂村(現在の南アルプス市)生まれ。本名は芳之助。幼年の頃上京し、明治33年司馬画塾に入門し、久保田米僊、金僊に師事した。明治37年東京美術学校日本画科選科に入学するが、1年半ほどで中退。平福百穂に私淑し、一方で福井江亭に洋画を学んだ。平福百穂の勧めで无声会会員となり、珊瑚会の結成にも参加。日本美術院試作展で美術院賞を受賞して院友に推挙されたが、のちに脱退し、以後は挿絵や役者絵版画家として活躍した。昭和35年、74歳で死去した。
山梨(21)-画人伝・INDEX
文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨「人物」博物館 甲州を生きた273人、生誕130周年 名取春仙展、山梨県立美術館研究紀要第17号(珊瑚会の活動に見る大正期日本画の一様相)