幕末から明治初期にかけて山形の文化の指導的役割を果たした細谷風翁は、山形市にあった真言宗宝幢寺の寺待宮城家に生まれ、十日町の医師・細谷玄琳の養子となり医師を継いだが、医業のかたわら漢学、武道、画業と幅広く活躍し、子弟の育成にも尽力した。画の門人としては、山辺の渡辺文貞、平清水の月田淡山、彫刻家の新海竹太郎らがいる。
画の師系は定かではないが、「芥子園画伝」などによって運筆法を独修し、自然風情を手本として写生しつつ独自の画境に達したと思われる。特に竹を好んで描いており、掲載の「風竹風菊図屏風」は、もっとも得意とした風竹・風菊を描いた代表作である。
細谷風翁(1807-1882)ほそや・ふうおう
文化4年山形生まれ。本名は玄達。別号に竹所、風道人、風老人、此君山房などがある。山形市の真言宗宝幢寺の寺侍宮城家に生まれ、9歳で十日町の漢方医・細谷玄琳の養子となった。師系は定かではないが、寺侍の昆野松涛、中林竹洞に絵を学んだともされる。詩作や篆刻にも長じていたといわれている。山形・村山地方の文人墨客の中心的存在で、幕末の激動期には清河八郎らの志士とも交友を持ち勤皇の志が厚かった。明治15年、75歳で死去した。
山形(22)-画人伝・INDEX
文献:村山ふるさと大百科、天童美術の流れ展、山形の屏風絵展