UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・鳥取 虎図

紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷

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片山楊谷「花王獣王図」鳥取県立博物館蔵

長崎の医師の家に生まれた片山楊谷(1760-1801)は、幼くして親を亡くし、画道で身を立てることを決意し、絵筆を携えて諸国を歴遊した。大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政5年に鳥取を訪れた際、鳥取藩西館の池田冠山にその画技を認められ、その家臣だった茶道家の片山家を継ぐことになった。長崎特有の異国情緒漂う画風に、奇抜は構図、鮮烈な色彩を用いて特異な作品を多く残した。その風貌は、体つきは小さかったが、鳶のように角ばったいかり肩をしていて、鋭い眼光を放ち、へりくだることのない厳しい気性にあふれていたという。常に紫の糸で頭髪を束ね、大道を堂々と闊歩し、人々の注目を浴びていたと伝わっており、大酒飲みの逸話も残している。

片山楊谷(1760-1801)かたやま・ようこく
宝暦10年長崎生まれ。旧姓は洞。名は貞雄(あるいは雄敬)、通称は宗馬、別号に洞観、画禅窟などがある。落款にはよく瓊浦を用いた。医師・洞雄敬(あるいは雄山)の子。宝暦13年、4歳で父を亡くし、画で身を立てるべく筆を携えて諸国を歴遊した。『画伝誓文』によると、備中川崎、大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政元年から2年は但馬、そして寛政5年に鳥取を訪れ、その際に鳥取藩西館の池田冠山に画技を認められ、茶道家・片山宗把の養子となって片山姓を名乗った。また、『鳥取藩史』によれば安永5年には鳥取の黄檗寺院・興禅寺を訪れ、医師・中川東山のもとに留まったとも伝わっている。寛政7年に京都に出て、西本願寺に寓して画名を挙げ、妙法院真仁親王に召されて「蓮下鯉魚之図」を描き、さらに光格天皇に献上の数十幅を描いている。師系は定かではないが、『画伝誓文』によると中国の画家・費漢源(不明-不明)の画法を伝えたとある。人物の頭髪や動物の体毛の一本一本を一筆一筆で描き出す「毛描き」を用い、奇抜で斬新な構図を得意とした。享和元年、但馬の湯村温泉において42歳で死去した。

費漢源(不明-不明)ひ・かんげん
片山楊谷が師事したと伝わる中国の画家。浙江省呉興の人。名は瀾、字は漢源。浩然と号した。伊孚九、張秋谷、江稼圃とともに「来舶四大家」と称され、山水、人物、花卉をよくし、四人のなかでも最も多才な画家だったといわれる。享保19年にはじめて長崎に来航し、その後宝暦6年ころまでの間に数回来日したとされる。伝存作品は少ない。
→参考:来舶四大家、伊孚九・張秋谷・費漢源・江稼圃

文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、因幡画壇の鬼才 楊谷・元旦

江戸の十二支どうぶつえん (面白江戸アートギャラリー)
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